もくじ
2020年 にじいろクレヨン Part2-1
津波の街だった石巻で子供たちの遊び場づくりをスタートした「にじいろクレヨン」。避難所では大人たちは自分たちのことで手一杯で、ギスギスした雰囲気になっていたそうです。子どもたちの声なき声を聞いた柴田さんは、子どもたちの笑顔を取り戻す活動を始めました。
動画は2020年6月30日「復興ボランティア学」、にじいろクレヨンの代表・柴田滋紀さんのお話です。2020年はオンライン開講だったので、お話しを4本の動画にしていました。今回は最初の動画(4本目の2番目)を3分割した1本目になります。
あの日、自分ができるだけの救助活動をやったので今は納得しています
日本大震災で私は津波から命からがら逃げました。本当に運が良かっただけで、生き延びることができました。私は消防団員として出来る限り人を助けました。聞こえる範囲、見える範囲は救助しました。助けられなかった命がたくさんあったことはわかっていましたが、自分ができることはやったので今は納得しています。
門脇小学校は私の母校でもあり震災当日は甥っ子がこの学校の5年生で、姪っ子が3年生でした。正直に言いますと、消防団員だったから救助活動を始めたのではなく、この小学校に甥っ子や姪っ子が、逃げ遅れてしまったのではないかと思って必死になって探していたのが本音です。この時は家族みんなが犠牲になってしまったかもしれないと思い、絶望の中で救助活動を続けていました。幸い次の日の早朝に家族全員と巡り会うことができました。
私が乗っていた消防車は津波で壊れてしまいました。この消防車から津波を見ましたし、この車で逃げました。ギリギリで乗り捨てて、走って逃げました。そのまま車に乗っていたら確実に死んでいたと思います。
避難所で子供の居場所づくりを始めました
避難した石巻高校の狭い避難所で、我慢しての避難生活のなかで、家族と離れ離れの友達を亡くした子どもたちや、それぞれが悲しみや絶望を抱えて過ごしていました。大人たちもこの時は、異常にイライラして過ごしておりました。そんな環境に子供達は不安を抱えて生きていました。私はその子たちの声にならない叫びを感じておりました。その声を感じ、自分に何が出来るだろうと考え、遊ぶこと寄り添うことならできるだろうと思い、避難所で子供の居場所づくりを始めました。これが「にじいろクレヨン」の原点です。
活動は一日一時間半。歌ったり踊ったり、、紙飛行機作って飛ばしたり校庭で鬼ごっこしたり、サッカーしたり、毎日毎日遊びました。3歳くらいから中学生までに20人から20人くらいが集まりました。高校生はボランティアとして活躍してくれました。また全国からたくさんの方がボランティアで参加してくださったので、活動場所を増やしていきました。多い時には1日に7か所、朝から晩まで遊び倒しました。そんな活動を毎日毎日繰り返しました。とにかく子供達に10年間は寄り添い続けようと決心しました。
この9年間でたくさんの変化がありました
避難所で子供達に絵を書いてもらった時の画像です。心の現れだと思います。暗く悲しい気持ち、そして怒りも感じられます。どれだけ我慢していたのでしょうか。この9年間でたくさんの変化がありました。まずは子どもたちは笑顔になりました。本当の笑顔だと感じています。震災の時抑えていた感情、乱暴、暴言、能面のような無表情の子ども。殴る、髪をつかむ、つねる、唾を吐く、石を投げる。「死ね」とか「もう来んな」とか、そんな表現しかできなかった子どもたち。とにかく私たちは安心、安全な場づくりを心掛けてきました。自分が自分でいられるあなたは、そのままのあなたでいい、というメッセージを送り続けてきました。そして今、子どもたちは自分を自分らしく表現してくれるようになったと思います。
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