牡鹿半島には30浜(漁村)がある。面白いのが、浜ごとにカキとか、わかめ、ホタテなど全然違う漁業をやいる。OCICAの取り組みをした牧浜は、カキ養殖の浜だった。季節になると浜の女性たちが集まって、カキをむくというのが習わしだった。ところが東日本大震災で、カキの加工場が破壊され、女性たちが集まって話す場がなくなった。そこで、新たな繋がりの場が必要になった。
もくじ
2014年5月20日 つむぎや 友廣裕一 Part7
浜ごとにやっている漁業が違う
OCICAの話に行きます。さっき言った鹿の角と漁網の補修糸のネックレス。「ぼっぽら食堂」は、鮎川浜という(牡鹿半島の)先っぽの浜でやってたんですけど、これは真ん中あたりにある牧浜というところでやっています。さっき言い忘れたんですけど、牡鹿半島って30浜(漁村)があると言ったんですけど、面白いのが、浜ごとに全然違う漁業をやってたりするんです。
ここの浜はカキばっかりやってるみたいなのがあれば、ここはワカメばっかりとか、ここはホタテばっかりとか、そういうハイブリッドもあるんですけど、ほんと浜によって全然違ったりするんです。鮎川浜は結構大きい港で、もともと鯨の街なんですよ。日本三大捕鯨地の一つで。あとで出てくるんですけど。ここの牧浜はカキの養殖で栄えた浜です。
行ったことがある人はいないと思うんですけど、いるかな、いないと思うんですけど、カキ殻の丘があるんですよね。10メーター、もうちょいあるかな、20メーターぐらいのカキ殻の丘があるんです。それぐらいカキが盛んな場所なんです。
カキって基本カラ付きではあまり流通してなくて、ほとんどむきガキで流通しているんです。むくのがおかあさんたちの仕事で、季節になったら浜じゅうのおかあさんたちが集まってカキをむくというのが浜の文化というか習慣みたいな感じになっていました。
でも震災の後、カキむき場が被害を受け、もちろん養殖の施設も被害を受けました。実は去年の秋に建物も新しくできたんですけど、やっぱりそこまで時間がかかったんですね。結構小さい浜だから後回しになったというのもあるし、なんといってもカキは育てようと思っても1年ではできないので、2年とかかかっちゃうので、そこまで、もともとやってたおかあさんたちの仕事がないというのがなかったのです。
カキむき場は女性たちの繋がりの場だった
この浜は、ちょうど半分ぐらいの家が流されて、ちょっと小高いところにある仮設住宅に移動して、半分ぐらいの人は家が残ったので、バラバラになってしまいました。あとお年寄りが結構孤立してるんです。
これはたぶんいろんなゲストの方が言ってると思うんですけど。特に最初の年とかって、良くも悪くも支援物資が毎日届くんですね。食べ物が届くじゃないですか。で、家族がいなくて、仕事がなかったら、もうその人たち家を出る理由がないんですよ。家にいてテレビ見てたらすべて終わっちゃうみたいな感じで、どんどん孤立しちゃう。孤立するとどうしてもネガティブなことを考えたりして、そうしたら体をこわしていく、みたいな悪循環になる。
浜の人たちって、面白いのが、女の人って基本地元の出身者っていないんです。みんな外から嫁いできています、小さい浜だから。だから基本みんなよそ者なんですね。ということは、上の人たちからどんどんその浜の慣習とか、文化とかルールとか、仕事の仕方とかみんな習うんですよ。すごいいい雰囲気で、年下の人は年上の人を敬うし、年上の人は年下の人をすごいサポートするし、みたいな関係があって。
年上の人が弱っていくのを見てて、年下の若いおかあさんたちが何かしたいと。「お茶っこをやりましょう」みたいなことを、お茶飲み会やりましょうというのを、ボランティアの人たちが来てくれて集会所でやったりするけど、やっぱり毎日お茶飲み会だけしてても話すネタもなくなってくるし、続かないよね、みたいな話になって。
カキむきをやってたときみたいに、みんなで集まっていっぱい仕事して、休み時間にペチャクチャしゃべってとか、終わった後めちゃくちゃしゃべってお茶飲みして帰っていく、そういうことができないかみたいな相談があったんです。
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