そうやって牡鹿半島で支援活動をしていたら、漁協の事務局から相談を受けた。漁師の男性たちは緊急雇用で仕事があったが、女性たちはやる仕事がなかったので「何か自分たちでできることはないか」という話し合いをしていた。その場に参加して、この土地でやる必然性のあるものは何かと問いかけたところ、一人の参加者からミサンガをつくったらどうかという提案があった。その結果、漁網の補修糸でミサンガをつくって販売することになった。
もくじ
2014年5月20日 つむぎや 友廣裕一 Part5
漁師の奥さんができる手仕事って
そんなことをやっていくなかで、2011年の4月に牡鹿漁協という、さっきの鮎川浜という半島の一番先っぽの浜の漁協の参事っていう、事務局のトップのおじさんと話をしてたら、「漁協の女性部のおかあさんたちが何かやりたいと言ってるから、ちょっと話を聞いてやってくれ」みたいな話になって、「あ、いいっすよ」って話を聞きに行きました。
漁師のおとうさんたちは緊急雇用とかでがれき撤去とかに行くんです。行ったら1万円とかもらえたりする。結構やることあるんですけど、意外と女の人ってあんまりやることなかったんですよ。特に子育てとか終わってたりするとあまりやることなくて、炊き出しを手伝ったりとかしてたんです。
さらに当時、船とか流された人たちが、どうやったら再開できるかというメドがなかったんですよ。今でこそ、いっぱい国が支援して、やりたいという人はまた船が買えたりするんですけど、当時いつになるか分からない。そのなかで旦那さんはとりあえず緊急雇用をやってるけど、おかあさんたちは手を動かしたりして、「何か自分たちで作れることとかないかな」みたいな話をしていました。
「何か作れないかな」みたいな話をいろいろやるわけです。とりあえず内職とかやってもいいけど、誰でもどこでもできる内職をやってもあまり続かないだろうなと思ったので、この土地でやる必然性のあるものはいったい何かという話をしていました。
そして、漁網ミサンガづくりが始まった
貝殻を使って何か作れないかとか、石ころを使って何か作れないかとか、いろいろ、ああだこうだ言っていくなかで、チエさんという人が、私はミサンガを作るのが趣味だった、と。昔から私はミサンガを作ってて――みんな分かんないかもしれないですけど、昔、Jリーグが流行った頃にミサンガが流行ったんです。
当時、ミサンガを作っては近所の子どもたちに配って、「私、ミサンガおばさんって呼ばれてたのよ」みたいな話が出てきて。それ面白いっすねってなった。「これを漁網の補修糸で作ったらきれいだと思うのよね」みたいな話になって。それいいじゃないですかって、すごい鮮やかな糸で作ってきた。これはいいと。周りにいたおかあさんたちも、7人のチームなんですけど、これを作りたいってチエさんに習って、ほかの6人が練習し始めたんです。結構苦戦して、1カ月ぐらいたって作れるようになっていました。
作れるようになったら、面白いことに、この人たち同じのを全然作らないんです。毎回違うのを作ってくるんです。同じものを全く作らない。これ面白いなと思って。全く規格化せずに自由に作ってきたのを「とりあえず作ってきたら売ります」みたいな感じで、僕が売りに行く。当時はまだチャリティグッズというのができる前だったので、結構売れるだろうなと思って、始めました。
一本1,000円で売りましょうと話をしていて、でもこういうのってずっと売れるもんじゃないよね、みたいな話をおかあさんたちともしていました。そのときに、1,000円で売るけど、半分は自分たちが作った人の給料にするけど、半分はみんなで貯金しようって決めたんです。
とりあえず動くけど、貯めながらほんとにもっとやりたいことに出会ったときにこのお金を使って次に進もう、みたいなことを決めたんです。これは、後からふり返るとすごいよかったなと思うんです。とりあえず、とりあえずまず何か動きたいからやろうって、翌日から動き出したんです。
コメント