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2013年8月3日 河北新報 武田真一 Part3
東日本大震災の被災者のためだけに、震災を風化させないという考え方でいいのだろうか。それでは、他人事であって、いずれは忘れ去られてしまいます。震災を忘れないということは、自分ごととして次の災害に活かすためだと、武田さんは言っています。
「忘れない」だけでいいのか
問いかけです。亡くなった方々と被災した方々、その方々のためだけの「忘れない」「風化させない」ということで果たしていいのだろうかという問題提起です。
犠牲者、被災者のために「忘れない」「風化させない」と限定して考えると、震災の被災と復興過程を、自分たちとはかけ離れた遠い世界で起きた、かわいそうな出来事である、他所事であるというような整理に繋がってしまわないだろうかということです。
被災地の中心である石巻はないでしょうけど、宮城県の中でも被災地のことをなかなか思い起こさなくなった人たちがいます。東北の中でもそうです。全国に広げると、そういう人たちはもっと多くなります。そういう人たちの間で風化の傾向が強まっているのだとすれば、おそらくは犠牲者、被災者のために「忘れない」ということに限定して考えているためではないかと、私は思っています。
先ほども言ったように、一時的には「忘れない」「風化させない」は不幸にして犠牲になった人たちのための、鎮魂であり、生き残って不自由な暮らしをしている人たちの行く末を思うためです。けれども、もっと大きな視点から社会全体を考えた場合、最大の目標はやはり「同じような犠牲を出さないため」「同じような災害で被災者になって、避難生活を送る人たちの暮らしがスムーズに進めるため」です。
犠牲を少なくして、被害を少なくして、復興復旧過程がスムーズに進むようにする。当事者たちのために「忘れない」の次に来るのは、やはり、そこなのだろうな、と思います。
震災の記録を次の災害へつなぐ
復興過程も含めて、震災の記録というのは、すべて次の災害の教訓として生かされるために、蓄積されていると考えるべきです。我々も発生直後からずっと記録重視ということを心がけて、何が起きて、何が起きていないのかということを、紙面でずっと記録してきました。
これは2年5カ月になる今も、まったく方針はかわっていません。というのも、犠牲者の無念も、被災者の苦悩も、次なる災害で、犠牲を少なくするため、復興をより良いものにするための教訓として生かされることで、初めて報われるのです。逆に、教訓として生かされないのであれば報われない。「忘れない」というのは、被災者のため、被災地のためだけではなくて、実は自分のため、自分の家族のため、自分が暮らす地域のため、社会のため、世界のためです。
ある意味では、言葉は適切かどうかわかりませんが、かなりエゴイスティックに「忘れない」。自分のために「忘れない」、家族のために「忘れない」、自分の地域のために「忘れない」、そういうふうに位置づけることが、本当に必要なことなんではないか。そういう確認がない限り、いつまでも遠い地域で起きた、自分とはかけ離れた不幸な出来事であるという整理で終わってしまう。そうすると「何か手を差し伸べてあげたいよね」と思うだけの「忘れない」になってしまうのではないでしょうか。
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