もくじ
2013年5月14日 JEN 西村真由美 Part5
東日本大震災の復興支援のため派遣され、気がつけば石巻常駐となっていた西村さん。JENでは東日本震災によって表面化した課題を整理し、解決に取り組んでいます。しかし、少子高齢化が進む日本では、20年後には各地で石巻と同様な問題が起こる可能性があります。ここでは1つの解決策として、中越地震後に過疎地の池谷集落で、JENが実施した問題解決モデルについて言及しています。
震災によって課題先進地域となった石巻
進行中のプロジェクトということで、市街地沿岸地区、牡鹿半島、十三浜といったエリアを中心に活動してます。JENとして、下記のように石巻の課題を整理しています。
- 人口減少
- 産業基盤の喪失(主要産業である漁業が解決的な被害)
- 安心して暮らせる環境(住宅・健康・教育等)の喪失
- 地域の交流助け合いの減少
これらは震災後に起こったり、震災を原因に起こったりした問題なんですが、一番大きなものは震災前から継続している「過疎化」です。それが石巻では震災をきっかけに、急速に進んでいるのであって、震災がなくても20年後、30年後には近い状態になっていたものと分析しています。そう考えると、今の石巻の状態は、20年後、30年後の日本の縮図であると思えます。日本はよく「課題先進国」といわれています。石巻が日本のモデルだとすれば、石巻の復興という取り組みが世界のモデルとなるのではと考えています。
こちら市街地の様子ですが、上釜地区、鹿妻地区、黄金浜地区というところで支援をしています。けれども、下記に挙げたような問題があります。
- 多くの方が仮設住宅、みなし仮設住宅、親戚宅等での生活を続けている
- 自治会も十分に機能していない
- 高齢者の孤立、子供の教育環境の悪化、被災状況に違いによる住民の対立など、様々な問題の顕在化
あと仮設住宅ですね。皆さんご存知のように、こういった問題が挙げ得られると思います。
- 引きこもり、孤独
- 自死
- 仮設住宅がなくなる不安
- 依存心
- 子どもの遊び場不足
牡鹿半島の課題です。
- 漁港のかさ上げ、カキ処理場建設の遅れ
- 今後の漁業の発展に不安
- もともとの過疎化
- 震災によって人口流出
- 教育事情など漁業以外の住環境も悪化
- 将来の集落の存続のリスク
ここに書いてあるように、集落そのものの存続の危機にあるようなところも多いと思います。
中越地震後には「奇跡の集落」で支援活動をしていました
石巻に来る前に、私は新潟県の池谷集落を支援させて頂いてました。それっていうのも2004年に中越大震災が起こってから、JENは6年間ずっと支援し続けていたからです。そこは本当に過疎が進んでしまって、震災でさらに6世帯まで減ってしまったんです。6世帯18人で、もうほとんど70代、80代のおじいちゃん、おばあちゃん、ばかりいる状態になってしまったところなんです。いわゆる限界集落と呼ばれて、ご本人たちも、もう村をたたむしかないところまで追い詰められたんです。
そこにJENが、ボランティアを6年間派遣し続けたんです。お米どころなので、夏には草取りとか、秋には稲刈りとか、豪雪地帯なので冬には「スノーバスターズ」とっていって雪下ろしをしたり、そうするとボランティアの中から、何度も何度も訪れるリピーターが出てきました。最終的には、その人たちが移住者になったんです。
2009年に若い子供のいる若い夫婦が移住して3人増え、2010年の終わりに若い女の子が2人移住して5人増えたんです。6世帯が9世帯になって、限界集落を脱却したので、「奇跡の集落」と呼ばれています。今では最初に移住したご夫婦に、一人赤ちゃんが生まれたので、平均年齢も若返って活気に溢れています。
過疎化の処方箋は「交流」しかありません
その人たちがどうして移住したのかというと、彼らも最初はボランティアだったんです。池谷に通ううちに、水が美味しい、お米が美味しい、おばあちゃんたちの人の温かさ、他にはない魅力を感じたようです。ボランティアたちは、それを言葉にして「美味しいね」とか言うので、おばあちゃん、おじいちゃんたちは、当たり前だと思ってたことを褒められるといった気づきがあって、交流がずっと続いたんです。
石巻でも交流が大事だって言われていますが、最近は「イベント疲れ」も問題かなって思います。受け入れる方が、そういうのが多すぎて疲れちゃうのです。ところが池谷の交流会は、村人をお客様にしてやったんです。やってきたボランティアの人たちがご飯とかを準備して、村人を迎え入れるっていう形の交流会をずっと続けていました。村の人たちも、ずっと、ずっともてなしてたら、疲れ果ててしまったと思います。そういうスタイルでやってきたから、続けることができたと思っています。
なんでそれができたかっていうと、本当にぱっと来たボランティアの人だけではできないので、ボランティアと村人をつなぐ運営ボランティアをつくりました。毎回ボランティアが20人で、二泊三日とかでくるんですけど、そこに運営ボランティアを5人ぐらい置いていたんですね。運営ボランティアという人は、何回もも、来たことのある慣れた人で、現地の段取りとかをしてもらっていました。さっきお話しした移住者は、その運営ボランティアの中から出てきました。ということがありましたので、これからこういう地域においても、交流はすごく大事だと思っています。
対話の場づくりでコミュニティを支援しました
仮設住宅をメインに心のケアなども継続して行なってます。子供の支援では、サッカーを通じて県外の子供と交流しています。あとはダンス教室も継続的に開催しています。町内会の夏祭りなども、住民の皆さんのイベントへのサポートいうことで支援しています。人が集まる機会っていうのは大事なことと捉えていまして、町内会を中心としてサポートさせていただいてます。
話し合いの機会もやはりなかったということで、既存コミュニティを対象に対話の場を設定させて頂いてます。こちら2011年9月の上釜地区ですが、皆さんバラバラになってしまって、こういう機会がないと、集まって話もできなかったという声が多く聞かれました。「よそ者」の団体にできることとして、地域へ入って話し合いの場を設定することもあると思いました。それ以来、対話の場を継続して作っています。
こちらは防災訓練の様子です。炊き出し訓練はキャンパーさんというNPOさんと協力して行なったりしました。JENでは、いまでも(2013年当時)継続してボランティアの受け入れをしいて、企業研修の受入れもおこなってます。いまお話ししたような、様々なプロジェクトを連動させて運営することで、人間がもともと持っている底力を、自然に引き出せるように工夫をしながら活動しています。
コメント