もくじ
石巻で始まった「移動の力」を取り戻す動き
東日本大震災から十年以上がたった今でも、石巻には「移動できないつらさ」の記憶が残っています。地震と津波で道路はこわれ、多くの車が流され、人びとは買い物や病院に行くのも難しくなりました。知らない土地に急いで作られた仮設住宅で、家から出る気力さえなくなっていく人もいました。移動手段を失うということは、外の世界とつながる力まで弱くしてしまったのです。
そんな時期に「必要な人に車を届けよう」と動き出した人がいました。日本カーシェアリング協会の吉澤武彦さんです。吉澤さんは、じつはペーパードライバーで、車の運転は苦手でした。けれど、困っている人が目の前にいるという思いだけで、福島から石巻へ、そして仮設住宅へと足を進めていきました。
吉澤さんの行動は、決して大げさなものではありません。けれど「自分が動けば、何かが少し変わるかもしれない」という気持ちを大切にし、小さな行動を積み重ねていきます。その小さな積み重ねが、人を巻き込み、車を集め、コミュニティを作り、ついには行政の動きまで変えていったのです。それは、石巻の未来の防災にもつながる取り組みへと広がっていきます。
石巻で起きたこの変化は、「支援とは何か」をあらためて考えるきっかけになります。どんな人が、どんな景色の中で、どのように動いたのか。その足跡をたどることは、これから起きるかもしれない災害への大切な準備にもなるのです。
ペーパードライバーが動かした「移動の現場」
それはフェリーのテレビで見た東日本大震災から始まった
2011年3月11日。島原へ向かうフェリーの中で、吉澤さんは小さなテレビに映る津波の映像を、息をのんで見つめていました。揺れを感じない九州と、画面の中で壊れ続ける町。その差に胸がざわつき、「これはとんでもないことが起きている」と強く感じたのです。
その瞬間、迷いなく「動こう」という気持ちが固まっていました。
まずは、原発事故が続く福島へ向かうことを決めました。「誰も行かないなら、自分が行くべきだ」と思ったからです。

移動手段の確保から始まった支援活動
吉澤さんには大きな弱点がありました。じつは車の運転がほとんどできないペーパードライバーだったことです。以前、慣れない運転で脱輪してしまい、車に乗ることを避けてきました。
それでも「動く」と決めた以上、できることを探すしかありません。地元の関西で、震災関連の集会に参加し、「福島まで運転できる人はいませんか?」と声をかけ続けました。最初は誰も振り向きませんでしたが、少しずつ仲間が集まり、やがて車5台とバス1台、そして物資がそろうまでになりました。
3月19日、吉澤さんは福島県いわき市に入りました。まだ瓦礫のにおいが残り、空気にはぴりついた緊張が漂っていました。地元の人がマスクなしで活動する姿に驚きつつ、吉澤さんはカッパとマスクで完全防備。「命がけでした」と振り返ります。そして「赤ちゃん引っ越しプロジェクト」として、妊婦さんや幼い子どもを守るため、何度も車を走らせました。

カーシェアリングという“新しい考え方”との出会い
震災から約1カ月後、吉澤さんは東京タワーの1階で山田バウさんと会い、「カーシェアリング」という言葉を初めて聞きます。仮設住宅が建ち始める時期に合わせ、「自治会へ提案してみたらどうか」と促され、吉澤さんは迷わず「じゃあ僕がやります」と即答しました。運転が苦手だった人が、今度は「車を集める側」になる。とても不思議な転換でした。
大阪へ戻った彼は、自転車で堺筋本町周辺の企業を回り始めます。受付で「被災地に車を持っていきたいので社長に渡してください」と資料を差し出し続けました。最初は手応えがなかったのですが、彼の姿を見ていた70代の男性が、社長を次々と紹介してくれるようになりました。そしてついに、営業車を寄付してくれる企業が現れます。
その頃のことを、吉澤さんは「電車で駐車場が多い会社を見つけたら途中下車して、引き返して訪ねていました」と語っています。そこには効率よりも、「今できること」を積み重ねていく姿勢がありました。
仮設住宅で見つけた仲間と、動き始めた最初の一台
車を集めただけでは活動は始まりません。次に“誰に手渡すか”という課題と向き合います。6月、石巻の仮設住宅をひとつずつ回り、住民と話をしました。支援物資で届いていた手ぬぐいを粗品に使い、アンケートを口実に会話のきっかけを作ります。目的はただ一つ、「一緒に動ける人に出会うこと」でした。
そして、万石浦の仮設で、ついにキーパーソンと出会います。「この取り組みの真ん中に立ってください」とお願いすると、その人は静かにうなずきました。こうして提供先が決まり、カーシェアリングの準備が本格的に動き出したのです。
テスト運用が始まると地元メディアが取り上げ、警察や陸運局から問い合わせが次々と届きました。吉澤さんは一つひとつ丁寧に対応し、公的に認められる形を作るため、1カ月以上、毎日FAXと電話でやり取りを続けました。
そして7月末、とうとう最初の1台が万石浦の仮設住宅で動き出します。ガリバーから寄付された車でした。その後も支援は続き、一時は月に10台もの車が届くほどになりました。

石巻の仮設住宅に息づいた小さな自治
ここで使われたカーシェアリングの仕組みは、むずかしいものではありません。みんなで1台の車を「順番に使う」だけです。鍵は当番の人が預かったり、決められた箱に入れて管理していました。ガソリン代や保険代は、使った人どうしで負担し、予約はノートやホワイトボードに書いて決める。
そして何より大切なのは、「どう使うか」を住民どうしの話し合いで決めることでした。
吉澤さんは車を置くだけで、細かいルールは住民にすべて任せました。その「話し合う時間」こそが、仮設住宅での新しいつながりを生み、カーシェアリングが「移動の仕組み」だけでなく「人をつなぐ媒体」になっていったのです。
車が動き出すと、仮設の風景が少しずつ変わっていきまた。利用者同士が声を掛け合い、ゴミひろいやお茶会が生まれ、やがて自治会が立ち上がったのです。
最初は、単なる「車」という移動手段の確保にすぎなかったことでしたが、人が集まり、声を交わし、地域をつくるための「媒体」として働き始めたのです。
たった一台の車が仮説住民を動かす器になった
行動の中心にあったのは「場づくり」
吉澤さんの取り組みを見ていくと、車そのものよりも大切にしていたことがあります。それは、住民が集まりやすくなる「場」をつくることでした。石巻のカーシェアの場も、まず人が安心して集まれる空気をつくることから始まっています。この「場」があったからこそ、人は声を出し、やがて関係が生まれていきました。行動の中心にあったのは支援のための道具ではなく、人と人を近づけるための環境づくりだったのです。

自治の糸口を生み出した話し合い
カーシェアリングの仕組みは単純でしたが、そこに大きな意味がありました。車の使い方を住民どうしで話し合うと、自然と顔を合わせる時間が増えます。どの時間に使うか。鍵はどこに置くか。ガソリン代はどう分けるか。こうした細かいことを自分たちで決める中で、「まちを自分たちで動かす力」が育っていきました。
これは支援を受ける側にとって、とても大きな一歩でした。住民が主体になった時、車は移動の手段をこえて、地域を動かす“器”へと姿を変えていったのです。
一人の行動が、未来の防災につながった
今できることから始める勇気
吉澤さんの行動は特別な力で成り立っていたわけではありません。苦手な運転を克服したわけでも、支援のプロとして動いたわけでもありません。ただ「今できることをしよう」と決めて、目の前の人に声をかけ続けただけでした。
この小さな一歩が、やがて車を集め、コミュニティを生み、行政までも動かしました。私たちも日常の中で、小さな声かけや行動を積み重ねることで、まちの力を静かに育てることができます。

日常のつながりが防災の力に変わる
カーシェアリングで生まれた自治の芽は、災害時にも大きな力を発揮します。普段から話し合っている人どうしは、いざという時にすぐ動けます。車の使い方や連絡方法を知っているだけでも、災害時の混乱は少なくなります。
つまり、日常のつながりこそが、未来の防災につながるのです。特別な備えをしなくても、関係を育てること自体が防災になる。それが石巻の記録が私たちに教えてくれることです。
石巻で生まれた自治の芽は、未来に根づくのか
EVが未来の防災を変える
石巻では、カーシェアリングの次に電気自動車(EV)の導入が始まりました。EVは移動するだけの車ではありません。電気が止まった時には“電源”としても使えます。震災で停電の苦しさを経験した地域だからこそ、この力は大きな意味を持ちます。もし町に10台のEVがあれば、災害時に集めて電源として活用することもできます。移動のための車が、防災の力へと広がる未来が見え始めていました。

日常に根づく 「助け合いの器」
カーシェアリングは、車を届けるだけの支援では終わりません。話し合いの場が生まれ、小さな自治が育ち、住民どうしが支え合う関係が広がりました。この“助け合いの器”は、災害の時だけの特別なものではなく、本来は日常の中で根づくべきものです。
石巻で芽生えたこの力が、これからの町にどのようにつながっていくのか。私たちの町にも、この小さな器を育てる土台はあるのか。石巻の記録は、未来の私たちに静かに問いかけています。

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