もくじ
揺らいだ支援の構造と、見えなくなった「器」
2011年3月11日、東日本大震災が東北を襲ったとき、石巻で崩れたのは建物だけではありませんでした。避難生活を送る住民と、外から駆けつける支援者、その周囲で暮らす人々の関係が一気に揺らぎ、「誰が誰を支えるのか」という前提が失われていきました。物資は届き、人手も集まる一方で、支援が増えるほど住民が自分の役割を持ちにくくなり、地域の主体性が薄れていくという矛盾が露わになっていきました。
こうした状況の中で、企業やNPOの組織づくりに携わっていた長尾彰さんは、支援の量よりも「受け止める器」の欠如を強く感じます。地域の人が自分の生活を自分の手で取り戻すための土台を整えなければ、どれだけ支援が届いても自立にはつながらない。行政の公平性や企業の収益性では埋まらない「狭間の困りごと」をどう支えるのか。その問いが、後に「プロジェクト結」を立ち上げる原点になりました。
長尾さんは「誰の人生も、誰かに任せきりにしてほしくない」と語ります。だからこそ、仮設住宅や学校で役割を失いかけていた住民が、もう一度自分の役割を取り戻せる場づくりを始めました。支援ではなく、自立を促すための「社会的包摂の器」を編み直す挑戦。それがこの記録の中心にあるテーマであり、支援と地域の関係を深く問い直す試みでした。
被災地で紡ぎ直された役割とつながり
東日本大震災・石巻の被災現場に初めて立った日
長尾さんが石巻に向かったのは、震災からわずか3週間後の2011年4月2日でした。きっかけは一本の電話でした。震災前から交流があった湊水産加工場の社長から「2階の休憩室が避難所になって、吉野地区の住民が80人ほど身を寄せている。物資が持たない。どうにかできないか」という切実な連絡が入ったのです。長尾さんは急いで食料や生活用品を集め、迷わず車を走らせました。途中、道路脇に積み上がった瓦礫の山や、静まり返った港町の風景が広がり、現地の深刻さを肌で感じながら石巻に入ったといいます。

一連の支援物資を届けたあと、長尾さんは教育支援を本業としていたこともあり、市内の学校を訪ねました。そこで目にしたのは、避難所対応に追われ、子どもたちに十分な目が届かない状態でした。片付けられないままの教室、落ち着かず走り回る子どもたち、疲れ切った教師たち。この光景が、長尾さんを「個人では限界がある。チームで動かなければ」と決意させました。その思いが形となり、2011年5月9日、「プロジェクト結」が立ち上がります。
東日本大震災後に形成されたプロボノ型支援チーム
結を支えたのは、特別な会議や選抜ではなく、長尾さんの声かけに応じた友人、さらにその友人たちが「できる範囲で協力したい」と集まった自然発生的な仲間でした。副理事長となった世界銀行職員、ソニーの広報担当、広告代理店のクリエイター、厚労省の職員、ITエンジニア、心理カウンセラー、弁護士。多様な専門性を持つ人々が、無報酬で参加するプロボノとして集結していきました。
東京に約40名のプロボノ、石巻に5〜7名の現地班、そして地域の住民ボランティア20名ほどがゆるやかにつながり、ひとつのコンソーシアムとして機能し始めます。長尾さんはこの形を「志を同じくする者の共同体」と呼び、役職や権限ではなく、目的で結ばれるチームとして位置づけました。
東日本大震災・石巻で立ち上がった3つの支援事業
結が最初に着手したのは「子どもの放課後支援(みんなの場)」でした。仮設住宅の集会所で、午後3時から6時まで子どもたちが安心して過ごせる空間を提供します。特徴的なのは、仮設住宅に暮らすお母さんたちを「ママスタッフ」として有償で雇用した点です。子どもの居場所であると同時に、地域の人が“自分の役割”を取り戻す場でもありました。東京のボランティアも加わり、子どもたちが大人の気配を感じられる時間がつくられていきました。
次に動き出したのは「学校支援(学校サポートセンター)」です。石巻市内の61校から要請が相次ぎました。避難所として使われていた体育館の片付け、壊れた備品の整理、泥に埋もれたプールの清掃、学齢簿の復旧。どれも教員でなくてもできる作業ですが、教員が抱える負荷は限界に達していました。「先生が先生の仕事に戻るために、先生でなくてもできることは全部われわれがやる」という方針のもと、結の現地班とプロボノが現場を支えました。

3つ目の事業が「結のいえ」と名付けられた託児・学童事業です。調剤薬局だった店舗を借り、認可外では数千円かかる託児を、仕事探しの場合は無料、その他は1時間500円に設定しました。小学4〜6年生の居場所としても機能し、家庭の事情で孤立しがちな子どもたちを支えました。行政の制度では拾いきれない部分に、結がそっと手を差し伸べたのです。
被災地・石巻を支えた“温度差を埋める”情報共有の力
結の運営で最も特徴的だったのは、東京と石巻をつなぐ情報共有の徹底でした。サイボウズのグループウェアやスカイプで、現地班が毎晩1〜3時間かけて日報を作成し、活動の細部まで共有しました。山形から届いたサクランボ100kgをどの学校に届けたか、韓国のラジオ局の取材に対応した現地スタッフの戸惑い、ティーボール大会に同行できずに「行きたかった」とつぶやく現地リーダーの気持ち。こうした小さな感情の記録が、遠隔にいる仲間の「温度差」を埋め、ひとつのチームとして動く原動力になりました。
石巻の復興支援で貫かれた“ニーズ優先”の原則
結の活動で繰り返されたのは、「シーズ(自分たちがやりたいこと)ではなく、ニーズ(相手が必要としていること)に徹する」という原則です。長尾さんによれば、2年半の活動で結が自ら企画した事業は4件のみ。あとはすべて現場から頼まれたことでした。この姿勢は、支援者が独善的にならず、被災地のリズムに寄り添うための防波堤でした。山形のサクランボを配る際も、安全性の確認や受け取りたい学校の調整など、手間のかかる段取りを厭いませんでした。それが「一緒にやる」信頼を積み重ねる作業であると理解していたからです。
復興支援を支えるのは仕組みではなく「関係の器」
行政でも企業でも担えない「狭間」をどう埋めたのか
プロジェクト結の実践を振り返ると、その中心にあったのは「社会的包摂」を現場で形にする試みでした。行政は公平性を守る仕組みとして優れているものの、個別の事情には十分に対応しきれません。一方で企業は収益性を前提とするため、採算が取れない分野には踏み込みにくい。
震災後の石巻で浮き彫りになったのは、この誰も拾えない領域でした。結のいえが提供した「仕事探しの場合は無料の託児」は、まさに行政と企業のどちらにも属さない「狭間」のニーズであり、そこに市民の自発的な組織が入ることで初めて成り立つ支援でした。
長尾さんは、この領域に関わるためには、制度よりも「関係」が先にあると考えました。制度は後から整備できるが、関係の土台が壊れていては何も始まらない。現場で交わされる対話、誤解を解く時間、そして感情の揺れを共有する日報。こうした“小さな積み重ね”が、支援が続く土台になっていました。つまり、結が整えていたのは「器」というよりも「関係の場」だったのです。

「熟議」によって支援を民主化する
結が徹底したのは、トップダウンでも多数決でもなく、全員が納得するまで話し合う「熟議」でした。たとえ1万円の支出でも理事長一存で決めることはできず、必ず議論を重ねて判断しました。このプロセスは時間も労力もかかります。しかし、復興支援のように価値観の異なる人々が集まる場では、意思決定の過程そのものが関係性を守る装置になります。異論をぶつけても関係を壊さない。相手に敬意を払いながら意見を伝える。この訓練は、学校や地域自治の場にも通じる、きわめて普遍的なスキルでした。
ただし、熟議は理想的である一方、結の内部に“温度差”を生む要因にもなりました。長尾さんは自分を「熱湯の人」と表現し、強い使命感で限界以上を目指すタイプでした。一方で、プロボノやボランティアには「できる範囲で」という参加者もいる。自由で開かれた組織ほど、この温度差は避けられません。この葛藤を抱えながらも結が活動を続けられたのは、共通の目的を見失わなかったからでした。
「シーズではなくニーズ」の徹底が生んだ信頼
結の活動で象徴的なのは、「頼まれたこと以外はやらない」という原則です。支援側の思い込みを排し、現場のニーズを最優先にすることで、地域とのパートナーシップは丁寧に築かれていきました。学校が必要としているのは“被災者への励まし”ではなく、泥だらけのプールを掃除する実働です。仮設住宅のお母さんが必要としていたのは、誰かに話を聞いてもらう場ではなく、収入のある「役割」でした。結が大切にしたのは、支援を“届ける”のではなく“つなぐ”こと。その姿勢が、地域の主体性を守る支援へとつながっていきました。
共助の現場から見える普遍的な教訓
専門性を差し出す「プロボノ」の価値
結の活動は、地域の担い手が減り続ける日本社会にとって重要な示唆を与えます。それは「誰でもできる支援」と「その人にしかできない支援」を両立させるために、プロボノが持つ専門性を活かすという発想です。広報担当者は広報を、ITの専門家はシステム整備を、心理専門家は現場のメンタルケアを担い、それぞれが自分の本業を出発点に貢献していきました。地域や企業が平時からこうした専門性のネットワークを持っておくことは、防災・減災の観点でも極めて重要で、共助の質を高める基盤になります。
関係を壊さずに異論を伝える「対話の力」
復興支援の現場では、立場や感情の衝突を避けられません。行政、学校、住民、支援者。それぞれの視点が違う中で、関係を維持しながら意見を交わす力は不可欠でした。結の熟議に見られる「異論を伝える技術」は、学校教育の探究学習や地域づくりでも重要なスキルとして応用できます。単に支援者の数を増やすのではなく、この“対話の素地”を育てることが、持続的な共助の鍵になります。

「目標」「指標」「成果」を共有する経営視点
結は、KGI・KPIなどの経営手法、SROI(社会的投資収益率)といった効果測定の考え方を積極的に採り入れていました。活動の影響を“見える化”することで、助成金の説明責任を果たしつつ、メンバー自身の納得感も高まりました。防災教育や地域活動にもこの視点は有効で、「なぜやるのか」「どれだけ変わったのか」を可視化することが、活動の継続性を生み出します。
特別な支援を「日常の共助」へ戻すために
活動の終わり方を見据えた支援
長尾さんは2013年の時点で、結の活動は少なくとも“あと3年”、できれば“10年かかる”と語っています。復興は短期では終わらないという現実と同時に、「依存を生まない支援とは何か」という重い問いが常にありました。学校側に「結に頼めばどうにかなる」と思われるような関係は避けなければならず、支援する側が“便利屋”になる危険も感じていました。支援を続ければ続けるほど、地域の主体性を奪ってしまう可能性がある。だからこそ、結は「出入り自由」「頼まれたことだけ」という原則を維持し、依存の芽を最小限にとどめたのです。

次の災害に備える「ゆるやかなネットワーク」
あれから十年以上が経ち、次の大規模災害が確実に来る時代に私たちが問われているのは、石巻で生まれた“器”をどう平時の共助に引き継ぐかということです。特別な時期にだけ生まれる熱量を、日常の「役割」と「関係」として地域に残すこと。行政でも企業でもなく、市民の手で編み直したつながりの文化を維持していくには、誰もが参加でき、誰でも抜けられる“ゆるやかだが強いネットワーク”が不可欠になります。
そのために必要なのは、私たち一人ひとりが「何を聞き取り」「何を測定し」「何をできるだけ続けるか」という問いを手放さないことです。震災後の石巻で生まれた器は、特別な支援ではなく、次世代が引き継ぐべき共助の習慣そのものでした。

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