東日本大震災に学ぶネットワーク型支援──石巻で生まれた協働のデザイン

復興支援活動の記録

Volunteerカテゴリ(2013年/中川政治)

支援の記録を「学びの教材」へ変える

東日本大震災は、多くの命と暮らしを奪いました。しかし、その同じ場所で、数えきれないほどのボランティアが動き出しました。彼らは、手探りのまま支援の現場に立ち、考え、協力し、失敗を重ねながらも、互いに学び合う場が生まれていきました。石巻市で生まれた「支援を支える仕組み」もその一つです。

「支援を束ねる」ことの難しさと意味

東日本大震災後の石巻。行政や社会福祉協議会、そして数多くのNPO・NGOが、それぞれの立場で動き始めていました。しかし、支援の手はあまりに多く、誰がどこで何をしているのかが見えなくなっていました。時には、善意の重なりが、混乱を生むことも。そんな中で「受け止める器」として立ち上がったのが、石巻災害復興支援協議会(IDRAC)でした。

この組織の中心になった一人がが中川政治さんです。中川さんが京都から石巻へ入ったとき、現地で見たのは「支援が足りない」というよりも「支援が行き届かない」という現実でした。物資も人もある。それなのに届かない。なぜか。それは、善意を束ねる仕組みがなかったからでした。

「協働のデザイン」としての学び

その後、石巻で構築されたネットワーク型支援の調整手法は、単なる現場の工夫にとどまらず、教育における「協働学習」や「プロジェクト型学習(PBL)」にも通じる示唆を含んでいます。人と人、組織と組織がどうやってつながり、互いの力を活かすのか。彼の記録を読むと、それが「支援」だけでなく、「学びのデザイン」そのものに通じていることが見えてきます。

ここでは、震災直後の石巻で生まれた協働のデザインを、「教育の現場で活かす知」として捉え直しています。被災地で培われた調整力、情報共有の仕組み、そして人と人をつなぐ信頼のつくり方。これらは、学校教育でも地域づくりでも、同じように必要とされる力です。現場での体験を、未来の学びの土台として再構成すること。それが「復興ボランティア学」の使命でもあります。

「受け止める器」が生まれた現場

被災地で見た「他者を思う力」

中川さんが石巻に着いたのは、震災発生からおよそ2週間後の3月末でした。京都で集めた物資を積み込み、「本当にこれが、困っている人に届くのか」という一点だけ確かめたくてトラックに同乗してきたのです。そして、支援の現場で、彼が目にしたのは、混乱の中にも驚くほど冷静で、互いを思いやる人々の姿でした。

「うちは物資いらないから。ほかにもたくさん困ってる人がいるから、そっち行ってあげて」。
そう声をかけてきたのは、水産高校近くの女性でした。自分も被災者でありながら、他者を思う言葉。中川さんはその言葉に驚き、そのような思いやりが石巻全体を支えていることに気づきました。

善意を束ねる仕組み「IDRAC」の誕生

東日本大震災による石巻市の被害は、津波で平野部の3割が浸水、家屋の被害は5万棟を超、市民の3分の1以上が避難所にいました。被災の規模は行政の手にあまるもので、とくにがれき処理は58年分もの量がありました。市の職員もまた被災者であり、家族の安否を確認しながら職務に当たる状況でした。

この膨大な課題に対応するため、社会福祉協議会が災害ボランティアセンター(VC)を立ち上げ、全国から集まるボランティアを受け入れました。しかし、それだけでは全体をカバーできません。中川さんたちは、NPO・NGOをつなぐ連絡調整機関「IDRAC」を立ち上げ、夜ごとミーティングを重ねて情報共有を行いました。集まった情報を整理し、活動の重複や抜けを防ぐ。その作業は、まるで巨大なネットワークを毎晩組み替えるような、緻密な頭脳戦でした。

「境界線」を越えて生まれた協働の力

毎晩会議は深夜まで及びました。280回におよぶ連絡会では、各団体による活動報告を行い、翌日の動きを確認しました。ある日はがれきの撤去、ある日は炊き出しの調整、またある日は避難所の衛生改善。行政とNPO、自衛隊が同じテーブルで話し合うこと自体が異例であり、そこに「支援の現場を学び合う文化」が育っていきました。

とくに印象的なのは、泥だし活動の「マッドバスターズ」です。行政は民有地のがれきや泥を撤去できません。しかし、それをボランティアが集めて公道まで運び出すことで、市が委託業者を手配できるようになりました。中川さんは「行政と民のあいだの“境界線”で、両方の力がかみ合った」と振り返ります。ほんの2日で道が通れるようになった地域では、住民の顔に久しぶりの笑顔が戻りました。

支援を動かす「調整の技術」

夏には「ダニバスターズ」と呼ばれる衛生活動が始まりました。避難所の布団のカビを取り除き、乾燥・交換を行うプロジェクトです。被災者の健康を守るため、医療関係者や企業ボランティアも連携しました。秋になると、「復興マインド」と呼ばれるお祭りや灯ろう流しの企画が動き出します。がれきのそばで行われたお祭りは、「日常を取り戻したい」という市民の願いが込められていました。

こうした動きの背後で、中川さんたちが重ねた努力は、目立たないけれど本質的なものでした。支援活動を「現場の声に即して組み替える」こと。変化し続ける状況の中で、毎晩データを更新し、次の一手を考える。その積み重ねが、28万人のボランティアを有機的に動かす力となりました。

大学が果たしたハブとしての役割

地元大学の存在も大きな役割を果たしました。大学の広大な敷地は、全国から集まる支援者を受け入れる「拠点」となり、テントを張って寝泊まりするボランティアの姿が、学生や地域住民の目に焼きつきました。大学が災害支援の拠点になったことで、行政・社協・NPOを結ぶハブがつくられ、「支援を支える支援」の場を生み出したのです。

中川さんは振り返ります。「大学の5号館で夜遅くまで会議をして、情報の詰まった部屋に自分を閉じ込めて寝ていた。テント泊しているボランティアの人たちもいたけれど、パソコンやデータは置きっぱなしにできなかった」。あの夜の会議室には、無数の善意をどう活かすか、真剣に考える人たちの息づかいがありました。

支援とは、ただ手を差しのべることではありません。その手をどう束ね、どこへ向けるかを考えること。その「調整の技術」こそが、石巻で生まれた最大の学びでした。

「器」が支えた関係のデザイン

データの共有が生んだ「支援の循環」

石巻でのネットワーク型支援の核は、単に情報を集約する仕組みではなく、「人と人の関係を支える器」そのものでした。行政、社協、NPO、企業、そして個人ボランティア。立場も目的も異なる多様な主体が、同じ場所に集まり、顔を合わせ、互いの思いを言葉にする。その関係の重なりが、支援の持続性を生みました。

中川さんは、炊き出しの調整を一つの例に挙げます。IDRACでは、自衛隊と市の炊き出し実績を青線、NPOの炊き出し実績を赤線で表し、同じ表にまとめて共有しました。行政の活動量が可視化されると、NPO側は「次にどこを補えばいいか」を即座に判断できる。逆に、行政側も「この地域はもうNPOが動いている」と分かれば、リソースを別の地域に回せます。つまり「量」ではなく「循環」を可視化する設計でした。

このデータ共有は、単なる報告書づくりではありません。そこには「相互信頼を可視化する」という目的がありました。たとえ立場やスピードが違っても、目的は同じ。「誰も取り残さない」支援を、どこまで連携して実現できるか。その意思確認が、毎晩の会議で繰り返されていたのです。数字の裏には、夜中まで残って議論を交わす人たちの姿がありました。

関係の中で生まれる「支援の線引き」

一方で、この調整は感情のない機械的な作業ではありませんでした。例えば、漁業支援の現場では、ホタテやワカメの収穫を手伝うことが「仕事の代行」になるのではないかという倫理的な葛藤がありました。東京から来たボランティアが「ここまで関わっていいのか」と悩み、連絡会で話し合う。支援と経済の境界線を、現場で何度も確かめる。中川さんは、この対話のプロセスこそが最も重要だったと語ります。ルールではなく、関係の中で線を引く。人が人を思うことから、支援の形が決まっていくのです。

「支援」から「共助」へ

活動の進展に伴い、IDRACは「支援」から「サポート」へと役割を変えていきました。外からの手助けを続けるのではなく、地域の自立を後押しする立場へ。東日本大震災から3年目になると、仮設住宅自治連合会や街なか創生協議会、観光協会など、地元の団体が自ら動き出す時期に入りました。中川さんは、住民主体のスポーツ大会を見守りながら「僕たちは本当に見ていただけ」と笑いました。支援者が主導するのではなく、住民が主役に立つ。それを支える「裏方の知」が成熟していたのです。

このとき、支援の「器」はもはや仕組みや制度のことではなく、信頼と対話が生み出す「場」を意味していました。あの会議室で交わされた何千という言葉、目配せ、ため息、そして笑い声。それらが「ネットワーク」という抽象語を、温かく人間的なものにしていったのです。

「協働の技術」を教育に転化する

中川さんが体現した支援の設計思想には、教育現場でも応用できる普遍的な力が息づいています。それは「すき間を見つけて埋める力」「批判を行動に変える力」「調整を通じて関係を保つ力」。いずれも、これからの教育や地域づくりに欠かせないスキルです。

すき間を見つけて動く力を育てる

第一に、「すき間を見つける力」。行政の手が届かないところにボランティアが入るように、教育でも制度の隙間にある課題を見出し、学生自身がプロジェクトを立ち上げていく学びが求められています。中川さんが言う「すき間」は、単なる不足ではなく、「まだ誰も取り組んでいない場所」のこと。PBL(Project Based Learning)においても、この発想が重要です。地域の問題を自分のテーマとして引き受ける力は、災害時の応急対応にもつながる「実践知」そのものです。

批判を行動に変える学びへ

第二に、「批判を行動に変える力」。中川さんは「市が悪いと言うのは簡単。でも何もしないのは同じこと」と言いました。この言葉には、学びの本質が含まれています。学生や市民が社会課題に向き合うとき、批判的思考は不可欠ですが、それが行動に結びつかなければ現実は変わらない。つまり、教育の目的は「正しさ」を教えることではなく、「動く勇気」を育てることにあるのです。

調整と振り返りが生む協働の知恵

第三に、「調整の技術」。IDRACのようなネットワーク運営には、関係者の意見を整理し、優先順位を決め、情報を透明に扱うスキルが求められました。この力は、チーム学習や地域PBLの運営にも直結します。複数の視点を尊重しながら、一つの方向性を見いだす。その経験は、次の災害時だけでなく、日常の組織づくりでも生きる知恵になります。

さらに、支援の場で育まれた「協働のリズム」も学びのヒントになります。毎晩ミーティングを重ねるように、教育現場でも定期的に振り返りを行い、「今どこに立っているか」を確認する。学びを積み上げるとは、単に知識を増やすことではなく、関係性を育てていく営みなのだと、中川さんは教えてくれます。

展望―「特別な支援」を「日常の習慣」へ

復興のその先にある問い

震災から数年が経った2013年、石巻の街は一見、復興の姿を取り戻したように見えました。しかし、中心市街地の商業統計を見れば、店舗数も従業員数も震災前から減少を続けており、「右肩下がりのまち」がそのまま再現されつつありました。中川さんは問いかけます。「復興って、どこを指すんでしょうか」。元に戻ることが復興なのか、それとも新しい形をつくることなのか。

学びが地域に根づくとき

地元大学の存在は、この問いに一つの答えを示しています。大学生という若い世代が、地域に根を張り、祭りやイベントのサポートを続けていく。これが「日常の支援」へと変わる第一歩です。京都の祇園祭のように、学生が世代を超えて地域行事を支える文化を育てていく。その仕組みができれば、支援は一過性の活動から「地域の誇り」へと変わります。

中川さんは語ります。「石巻うらやましいよね。だって大学があるから」。その言葉は、単に教育機関があるという意味ではなく、「学びが地域に生きている」という実感を指しています。支援の記録を教育の現場で語り継ぐこと。学生が地域の課題を自分ごととして考え、継続的に関わること。これらが、復興を「未来へ続く学び」に変える鍵なのです。

「すき間」を埋める次の担い手へ

最後に中川さんはこう締めくくります。「次はあなたの番です」。震災のとき「何もできなかった」と感じた彼が、行動に移したように、今度は私たちが自分の地域で動く番です。空き地が増えていく町で、あなたはどんな「すき間」を見つけ、どう埋めていくでしょうか。支援は遠い出来事ではなく、日常の延長にある。それを習慣として続けていくことが、真の復興への道だと、この石巻の記録は静かに教えてくれます。

東日本大震災の仮設住宅支援、復興起業家育成に関わってきました。大学では、震災復興を考える講座やワークショップを実施しています。ここでは、復興ボランティア学講座の記録をまてめて、公開しています。

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