Volunteerカテゴリ(2013年/村島弘子)
もくじ
東日本大震災で移動手段が失われた石巻で起きたこと
東日本大震災から2年半たったころ、石巻の街は少しずつ元の姿を取り戻していくように見えていました。けれど、仮設住宅で暮らす人たちの毎日は、私たちが想像する「ふつうの生活」とは全く違っていました。病院に行きたいのに行けない。買い物にも行けない。誰にも会えない。そんな「外に出られない生活」が、多くの人の心を静かに弱らせていたのです。
この問題と向き合ったのが、移動支援Rera(レラ)という団体でした。レラがやってきたことは、ただの送迎ではありません。人は外に出られるようになるだけで、気持ちが楽になり、誰かとつながっていると感じられます。移動を支えることは、その人の心や生きる力を支えることでもあるのです。
レラの活動を見ると、震災がどれだけ大きく人々の日常を壊し、そして「移動」がどれほど大切なものだったのかが見えてきます。それは、私たちが暮らす町でも起こりうる問題です。「外に出られなくなると、人はどうなるのか。」「そんな時、どんな助け方ができるのか。」レラの活動は、その答えを教えてくれる、大切な手がかりになっています。
東日本大震災後の石巻で、走り続けた赤い服の支援者たち
「移動」が命をつなぐ力になった
レラが石巻で活動を始めたころ、街はまだ大きな混乱の中にありました。介護の仕組みも、福祉のサービスも動かず、誰がどこで困っているのかすらわからない。そんな状況で、まず「移動」という支援があることを「見つけてもらうこと」を大切にしました。赤い服を着て、赤いマークの車を走らせ、どこにいても「レラだ」と分かるようにしたのです。
初めの活動範囲は幅広く、寝たきりのお年寄りをお風呂に連れていったり、避難所から自衛隊の仮設風呂まで送ったり、火葬場まで家族を送り届けたりしていました。生と死のすぐ近くで、人の心に寄り添う仕事が続いたのです。2011年5月からの約2年で、レラが支えた移動は延べ4万1千人。毎日70から100人を車に乗せる日々は、「今、必要としている人がいる」という思いに押されて続きました。

移動が止まると、命が危ない人たちもいた
とくに深刻だったのが「人工透析」を受けている人たちでした。週に3回の治療が必要で、受けられなければ命に関わります。震災直後は透析の施設がほとんど動かず、石巻ではたった一部しか使えない状態でした。避難所に届けられる食べ物はおにぎりや菓子パンばかりで、透析の人には危険になることもありました。仙台や県外に行かないと治療ができない人もいて、「移動」がそのまま「生きること」に直結していたのです。
「病院まで往復5千円かかる」「バスでは透析に間に合わない」「3階から降りるのがつらい」そんな声が毎日のように届き、レラは走り続けるしかありません。レラに寄せられた声は、どれも切実で、「移動すること」そのものが、生活と命に直結している現実を突きつけていました。
移動ができないと、心まで動けなくなる
活動を続けるうちに、村島さんは別の問題にも気づき始めます。精神的に落ち込む人が増えていったのです。それまで元気だった人が急に「いま、つらい」と話し始めたり、若い世代がひきもったり、という状態が目に見えるように増えていました。外に出られないことは、体が動かないというだけでなく、心の元気や生活のリズムまで奪ってしまう。その現実をすぐそばで感じていました。
レラのスタッフの、ほとんどは石巻の人たちです。なかには仮設住宅に暮らしながら活動していたメンバーもいました。自分たちも大変なのに「やめられない」と言い続けたのは、使命感よりも、毎日のように届く切実な声があったからでした。誰かを病院に連れていく。誰かの外出を助ける。そのひとつひとつが、人の心を守り、生活を支えることだと知っていたからです。
移動が支援の「関係の器」になった理由
レラの活動は、ただ人を車に乗せて運ぶだけではありませんでした。震災でバラバラになってしまった人のつながりを、もう一度つくり直す取り組みそのものでした。震災直後の石巻では、行政の仕組みがストップし、「誰がどこで困っているのか」「どこに助けが必要なのか」が全くわからない状態でした。既存の社会システムが壊れると、人の移動はあっという間に断たれてしまいます。そんな“空白”を埋めたのが、Reraでした。
行政の「縦割り」でこぼれ落ちる命
村島さんは、透析患者の送迎や通学の支援について行政に相談した際、担当省庁ごとに「それはうちではない」と言われたそうです。一口に移動と言っても、それは厚生労働省、文部科学省、国土交通省にまたがっています。行政はそれぞれの役割が決まっているため、分野をまたぐ問題は誰の仕事にもなりません。
災害時には、そうした縦割りの構造が、人命に直結する移動の問題を深刻化させてしまったのです。Reraが動き続けた背景には、この「役割の空白」がありました。

家族や近所の力がなくなった街で起きたこと
震災前の石巻は、家族同士や近所同士のつながりが強い地域でした。けれど、津波ですべてが流され、仮設住宅に移ると、そのつながりはあっという間に消えてしまいました。「知り合いがいない」「助けてと言えない」「家族も遠くにいる」、そんな人が増えたとき、街は急にとてももろくなります。
村島さんは「地縁や血縁がなくなると、社会はこんなにも弱くなる」と実感したといいます。「移動」の問題は、もともと地域に存在していた潜在的な課題が、震災によって一気に表面化しただけです。レラが出会った利用者たちの姿は、「これから日本が直面する未来の姿」なのです。
「移動」が心の回復を支える力になる
人は、外に出られるようになるだけで変わります。病院へ行ける。買い物ができる。誰かと言葉を交わせる。外に出ることは、「心の扉」を少しずつ開く行為でもあったのです。Reraのスタッフは送迎の中で、その日の体調、ささいな不安、うれしかった出来事など、たくさんの声を聞きました。その短いやり取りが、利用者にとっては「社会とつながっている」と感じられる、とても大切な時間でした。
移動支援とは、ただ目的地まで送ることではありません。人と人を結び直すこと。心にたまった不安を少し軽くすること。そして、もう一度、外に向かう力を取り戻すこと。レラが支えていたのは、「移動」だけではなく、「生きる力」そのものだったのです。
現場から導かれる“未来へのヒント”
レラの活動から分かるのは、「移動」という何でもない行動が、実は人の生きる力に深く関わっているということです。ふだん当たり前にできていたことが突然できなくなると、人の生活はどう変わるのか。そして、私たちはどんな準備をしておくべきなのか。そのヒントは、学校、地域、そして防災のすべてにつながっています。
見えにくい弱さを“最初に見つける”という姿勢
東日本大震災のとき、いちばん命の危険にさらされたのは、高齢者や障害のある人たちでした。逃げることができない。医療を受けられない。助けてと言えない。これは震災だから起きた問題ではなく、もともと地域が抱えていた「見えない弱さ」が表に出た結果でもあります。
地域づくりでも教育でも、「いちばん弱い立場の人はどうなるだろう」と考えられるかどうかが、街全体の安全を決めます。村島さんが現場で見てきた姿は、そのまま未来の地域づくりの大事な指針になっています。

“自分から動く力”が共助を支える
村島さんは、ボランティアについて「無償で働くことではなく、自分から『やります』と言うこと」だと話しています。誰かに頼まれたから動くのではなく、「自分がやりたいから動く」。この小さな自発性が、支援の輪を広げ、人が集まり、活動が続いていく力になるのです。
防災教育でも、地域の活動でも、若い世代が「やってみたい」と思える場を作ることが、未来の共助につながります。
どんな経験も、未来のどこかで必ず活きてくる
村島さんは、「何を極めたいかより、どんな人でありたいかが大事」と語っています。専門が一つだけでなくてもいい。まだ、これがやりたいが見つからなくてもいい。経験がバラバラでも、それは将来、必ず誰かを助ける力になります。
先が読めない社会では、ひとつの枠にとらわれず、状況に合わせて動ける「しなやかな人」がとても強いのです。
子どもも大人も、今の経験を「いつか誰かの役に立つもの」と思えること。それが、未来を生き抜く力につながります。
「移動を守る」という日常習慣をどう築くのか
行きたい場所へ行ける街をめざして
レラの活動は、震災直後の「とにかく急ぐしかない支援」から、少しずつ「日常を支える支援」へと向かっていきました。NPO法人になったのも、この先も長く地域を支える覚悟を決めたからです。けれど、ずっと無料で送迎を続けるのは困難です。そこでReraは「福祉有償運送」を取り入れ、移動がむずかしい人でも安心して外に出られる仕組みを、行政と一緒に考え始めました。めざすのは、誰もが「自分の行きたい場所へ行ける街」です。

「もし移動ができなくなったら、人はどう生きていけるのか。」
震災は、「日本の未来を10年早送りした」と言われます。高齢化、ひとり暮らしの増加、地域のつながりの弱さ。これらは、被災地だけの問題ではありません。私たちの街でも、同じ現象が静かに進んでいます。
必要なのは、「誰かが困っている声に気づき、そっと手を伸ばせる」ような地域の空気です。行政だけに頼るのではなく、住民と行政が重なり合って支え合うこと。これが、未来の共助の土台になります。
いまも石巻では、赤い服のスタッフがハンドルを握り、誰かの「外に出たい」という気持ちを静かに支えています。その一つひとつの送迎が、人の心を守り、地域のつながりをもう一度結び直しています。レラの歩みは、災害支援の話ではなく、これからの日本にとって大切な「日常の課題」として、語り継ぐ必要があります。

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