もくじ
プレーワーカーズ 廣川和紀 Part1-1
動画は2020年7月7日「復興ボランティア学」より、プレーワーカーズの理事・廣川和紀さんのお話です。2020年はオンライン開講だったので、授業内容を4本の動画で提供していただきました。今回は1番目の動画を3分割したものの1/3本目になります。
「プレーワーカー」だからといって、文字通り遊びながら仕事をしているわけではありません。子どもたちの遊びを作ることが仕事です。いまではプレーワーカーズの理事として働いている廣川さんですが、震災前までは会社員をしていました。なぜ彼は、子どもの遊び場づくりの世界へ、足を踏み入れたのでしょうか。
16歳から子どもに関わる活動を始めました
こんにちはプレーワーカーズの廣川和紀です。よろしくお願いします。今日は復興ボランティア学でどんな話しをしようかなと考えた時に、はじめに自分が高校生とか大学生の頃に考えていたことを少し話しながら、石巻で震災後、子どもの遊び場を作る支援活動をしていたので、そんな話とかできればと思っています。そして最後に自分が考えてるまちづくり、子どもと暮らす街づくりという話をしていきたいなと思いますので、よろしくお願いします。早速なんですけれども、最初、15分ごとに切ってっていうようなお話だったので、最初の15分はですねあの自己紹介プラスもう少しぐらいのところで話をしたいなと思います。
僕は16歳ぐらいなので高校1年生の頃、それまで中学のときからずっとサッカーやってたんですけど、夏休み終わった時にサッカーの部活動をやめました。そこからどうしようかなっていう思った時に、中学の時に部活もやりながら入っていたサッカーのクラブチームに戻って、そこでサッカーのコーチをやることにしました。
コーチとはいっても小学生とかそういう子どもたちと一緒に遊ぶようなことがメインだったんですけど、ほかに練習メニュー考えたり、トレーニングメニューを考えたり、今でいうスポーツ少年団にかなり近いんですけど、そういう活動を始めました。そこが子どもに関わる活動のスタートです。
そんなことを経験して子供にすごく興味持ったっこともあって、子どもの自治を育てる少年団で自分は小学生の頃からずキャンプに行ったりとか、クリスマス会やったりとか、そういう活動もしていました。高校生ぐらいになってからも一緒に子どもたちの企画を考えるお手伝いをしていました。
あとは「東京おもちゃ美術館」というのが新宿区四谷にあるんですけども、そこで学芸員をしてたり、プレーパークという子供が自由に遊ぶ場所なんですが、に関わったり、そんな活動をし始めました。それが市民活動としてやっていた時期です。
サラリーマンからプレーワーカーへ転職しました
大学卒業してから仙台に移り住んで就職したんですけども、そこで遊具のメーカーに勤めていました。そうやって一般企業で普通にサラリーマンをしながら、休日は、仙台にもプレーパークがあったので、そこに関わることをしてきました。
2011年に東日本大震災が起こって、僕がその企業に入ったのが2009年大学卒業したのが2009年だったんですけど、入ってから2年後ですね、あの震災が起こりました。それからしばらくは会社員をしながら、石巻にも行って子供の遊び場づくりをするボランティアをしていました。
けどまあその後、会社を辞めて「プレーワーカー」という子供に関わる専門職に転職しました。転職をして、支援活動をしてその後は、自分たちでそれはプレーワーカーズという団体を立ち上げました。なので、いま理事なのですが理事ていうのは要はその一般社団法人の経営者の一人っていう感じですね。そんな形で今は活動をしています。(Part1-2へつづく)
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