東日本大震災の被害を受けた石巻で、カーシェアリングの活動を始めた関西出身の吉澤さん。3月11日は出張で九州の島原に向かう船の中にいました。フェリーの中で東日本大震災のニュースを聞くとすぐに「動く」ことを決断します。そして、福島の子供を助けることから支援活動を始めました。
もくじ
2013年7月30日 日本カーシェアリング協会 吉澤武彦Part2
自分だけができることを探して動く
私の3・11です。たまにはのんびりと、60分の海の旅。熊本から島原のフェリーに乗って移動していました。そのフェリーのテレビで、僕は震災の事を知りました。たまたまその時は、仕事で熊本へ出張に来ていまして、そこから別の用事で島原へ向かうところでした。
九州は地震ではまったく揺れなかったので、フェリーでニュースを見るまで気づきませんでした。テレビの映像を見ながら「これは大変やな~」と思いました。予約していた島原のホテルに着いてから、そこでテレビとインターネットで状況を追いかけていったんです。ああ、これはほんま大変だと。範囲が広すぎると。
僕の中では、もう動こうという決断は、心の中ではできていました。あとはどうしようっていうのを考えた時に、僕は明快な優先順位をつけました。一番最初にターゲットを絞ったのは、「福島の子供を助ける」っていうこと。
これは、福島の原発がもう爆発するかもしれない、日本が沈没するかもしれないみたいな空気があったので、ここはなかなか、みんな手を出せないなっていうふうに思ったんです。僕は天邪鬼(あまのじゃく)的なところがありまして、みんなができるようなことをやっても、しょうがないと思っているんです。
それよりも、みんながなかなかやれないことを自分の仕事にしていこうと思いったから「福島」なんですね。そこで一番大切なのはやっぱり「子ども」やと思ったんです。ましてや子どもたちには責任はありませんから。だからそこから始めました。
要は自分にしかできないことっていうのを、僕はいつも心の片隅に置いているんです。その中からの判断です。
動くと決めたら助けてくれる人が現れた
そうそう、僕、日本カーシェアリング協会の代表なんですけど、実はペーパードライバーだったんです。車運転できなかったんです。僕は一回仕事で、キャンギャルのお姉ちゃん乗せて、ぜんぜん慣れない車を運転していて、脱輪したことがあって。その時にすごく冷たい目で見られて、その時もう車は嫌やって思って、それ以来車は乗ってなかったんです。
車は乗れないんですけれども、行くっていうことを決めたので、運転手を探すことにしました。地震があってから、僕の住んでいた関西のほうではいろんな集会が開かれました。原発事故や放射能の様々な情報を共有したり、自分達に何かできることはないかみたいなのを話し合ったりするような集会です。
そういうところに行って、「僕が福島行きますので、運転手として誰か一緒に行ってくれる人いませんか?」っていうふうな話をやっていったんです。僕の活動はそこから始まりました。
なんかそんなんやっていくうちに、すごい反対とかもされたんですけれど、「なんかあの人、福島に行ってくれるらしいで」、みたいな、そんな噂が流れていったんです。気がついたら、いろんな人を紹介されたりとか、お金が集まったりとか、物資が集まったりとか、そしてとうとうドライバーも現れたんです。
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