勘違いから始まった障害者ボランティアがきっかけとなって、大学では障害者を支援するサークル活動を立ち上げるまでになっていた河内さん。4年生になったとき、いままで出会った障害をもった人たちと、これからも関わり続ける決意をします。そして、サークルメンバーと一緒に、障害者に必要な支援を作り続けるNPO法人を設立しました。
もくじ
2014年5月13日 Edge 河内崇典 Part7
社会から遮られている障害者
そのあと4年生になったときに就職も決まってました。でもその人の生活ってどうなるんだろう。ほかの障害を持った人たちに出会うと、自分たちが当たり前のようにできていることが、障害があることによって、いろんな社会的な経験を奪われてることがあったんですね。
例えば、野球。おれは友達とキャッチボールできる。けれども障害があることによってコミュニケーションがとれないから、キャッチボールしたことない人もいるんですよ。でも野球の阪神がファンでファンで仕方ない。だから野球をやりたい。そういったみんなで一緒に集まれば、甲子園に行ってビールを飲みながら野球だって見れるわけだし、9人とか10人集めてくれば野球の遊びだってできる。
それが障害があることによって、いろんなことが遮られてるんだなということに学生のときに気づいて、障害を持った人たちをどんどんどんどん社会経験をしていってもらおうということで、キャンプに行ったりとか、いろんなお泊まりの練習をしたりとかっていうようなサークルを立ち上げました。
そんなことが仕事になったら面白いかも
そのあと4年生になったときに、最初のお母さんですね。「卒業しても忘れんといてね」って。「もし頭の片隅になんかこの家覚えてたら、いつか子ども連れて遊びに来てね」みたいな、そのときになんて言います。
「ああ、じゃあまたいつか会う日まで」みたいな言うて出ていきます。出ないでしょう。そんなん言える人会ってみたいよ。無理。そのときなんて言ったか。「そんなん言わんといて、冷たいこと」「おれ、いつも来るやん」みたいな言ってもうたもん。
それ、いつも来るやん言うてもうたあと、どうしようってなって。大学のときに障害を持った人たちの余暇をサポートするサークルを立ち上げていたので、そのメンバーで夜な夜な話し合って「おれこんなことを言ってしまった」と。
「やっぱりこの人の生活を支えていきたいし、少しでも障害を持った人たちが、遮られてしまっている経験を一緒にやっていくようなことが仕事でできたらどうする」みたいな話をみんなにふっかけて。
そしたら、みんな大学4年生で、「そんなことが仕事になったら面白いかも」って言い始めて、「じゃあ仕事でやる」って言って、そのまま会社立ち上げました。
必要な課題に取り組み続ける
2001年にサークルのメンバーでNPO法人を申請して、15年たちましたけど、今もなお7人一緒に働いていますよ。高校のときの連れは2人、自分も入れて合計3人。というような集団です。
なんやかんやと最初は貧乏な思いもしましたけれども、今はなんとそういう介護のビジネスというか、いろんな事業をやってるんです。このあと紹介しますけれども、今は会社は1億円を超し、60人ぐらいのスタッフと、200名以上のボランティアがいます。
必要な支援を作り続けていくというミッションのもとでやっていたら、それに共感してくれた学生たちこんで、その学生たちが大人になって自分たちの会社で働いてくれています。いろんな社会福祉士や精神保健福祉士、保育士、臨床心理士、いろんな資格を持った人間がみ・らいずに帰ってきて、今もなお働き続けてくれています。
ひとつ、優柔不断だったっていうことですね。優柔不断だったけれども、こういう必要な課題に対してずっと取り組んでいけば、そういうふうな形になったという話です。
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