2014年|復興ボランティア学|第2回−3
登壇者:阿部由紀さん
所属:石巻市社会福祉協議会
震災直後の石巻には、全国から多様なボランティアや支援団体が集まっていました。立場も経験も目的も異なる人たちが同じ現場に集まる中で、社会福祉協議会には支援を受け入れ、調整し、地域につなぐ役割が求められていました。本講演では、1,000人規模のボランティアが活動した現場の実情や、混乱や対立を抱えながらも支援体制を築いていった日々について語られます。地域福祉の視点から多様な支援者と向き合った実践の記録です。
津波で故郷を失った実感
これは私が生まれ育った雄勝という場所です。ここには20メートル以上の津波が押し寄せ、800世帯ほどあった地域が、ほとんどなくなってしまいました。生まれ故郷を失うというのは、今でも非常に寂しいものがあります。先日、雄勝がなくなった瞬間の津波映像を屋上から撮影したものを初めて見せてもらい、ああ、こんなふうになくなっていったのかと実感しました。

南浜町も、皆さんご存じかもしれませんが、石巻の日和山から見える風景の初期の頃です。今はきれいになっています。ここは災害ボランティアセンターの5号館前で、全国から個人ボランティアや企業の方、ボランティア団体の方々が受付をしていました。NGOやNPOの皆さんは復興支援協議会で受付をして活動してくれました。受け入れ先が違っていたことで、それぞれがうまく機能した例だと思っています。
熱い想いと衝突、そして仲間たち
5号館前では、毎朝ボランティアの方々がミーティングをしていました。真ん中にいるオレンジのビブスを着たボランティアセンターのスタッフは、福岡から来たボランティアで、今はうちの正規職員として地域福祉コーディネーターをしています。こういう人も中にはいます。
当時、陸上競技場には500張り以上のテントがあり、1,000人ほどの得体の知れない方々が来て、地元の大学には迷惑をかけました。夜は「たしなむ程度のお酒はOK」と言っていただきましたが、実際はたしなむ程度ではありませんでした。NPOの方々が「ここはどこだと思っているんだ」と注意して歩いてくれたこともありました。
大学のキャンパス利用のルールも復興支援協議会の方々に作ってもらい、それを皆さんに伝えていました。救急車が10回ほど来て、警察も来るほど、けんかやトラブルがありました。私も1件巻き込まれましたが、非常に殺気立っていて、ある意味熱のこもった方々が集まっていたので、復興支援やボランティアへの熱意でけんかになることもありました。お酒も入るので、「こう思うんだ」「ここはこうしなければいけない」「お前の言っていることは間違っている」といった口論がしょっちゅう起きていました。
彼らは1,000年に一度の災害に対して、仕事を辞めて来た人や、今まで目標がなかったけれどこの災害を映像で見て黙っていられなくて来た人が多かったです。テントを張っていた人たちは特にそうでした。2、3日だけボランティアに来た人と、思い入れを持って長期間活動する人では、考え方がまるっきり違います。
私は前者のようにちょろっと行くタイプで、今までも1週間や10日ほどのボランティア活動はしましたが、1カ月や1年、長い人では3年も活動しています。そういう方は、今までの貯蓄を使いながら活動していて、石巻で活動されている方に多いです。
野球部の練習場も資材倉庫になり、一面がそのように使われました。修繕費もかなりかかったと思います。床を全部張り替えるほどでした。野球部の方がいれば分かると思いますが、ものすごい状況でした。市から毎週10万袋の土のう袋が届き、それを1週間で使い切るほど、石巻にはパワーのあるボランティアが集まっていました。
毎晩4カ月以上、泥かきだけのミーティングが行われていました。このほかにも、復興支援協議会で子ども支援や炊き出し、リラクゼーションなど、さまざまな分科会がありました。私たち社会福祉協議会が主体となってやっていたのは泥かきです。ガラの悪い人も多く、そんな中でネクタイを締めた私たちが立ち向かうのはなかなか大変でした。けんか口調になることもあり、その場にいられない職員もいました。

でも、この人たちの目は本当に純粋で、見た目はこんなでも、被災者支援に真摯に向き合ってくれていました。立場をどうすればいいのか、話し合うことは福祉のオタクとしては本当に良いミーティングで、4カ月間毎日休まずやらせてもらったことは、今の人生の中でも大きな宝です。このメンバーは今でも同士のような存在で、たまに社会福祉協議会に訪れてお茶を飲んで帰ったり、私が講演で全国を回る際にNPOの皆さんとお酒を飲んだりしています。今でも仲間です。
現場で直面した危険と、ボランティアの役割
ボランティアにボランティアが付かなければならなかった事実を、皆さんにご紹介したいと思います。企業や個人でバスに乗ってボランティア活動に来る方々は、地域事情や作業内容、リスクなどをまったく分かっていませんでした。当時は放射能がどれくらい降っているのかも知らされておらず、自分たちで調べなければなりませんでした。薬品などもそうです。例えば市立病院が壊れ、津波が来た場所に一人で調査に行ったとき、真っ暗な病院で恐ろしい臭いや、何とも言えない怖さ、寒気を感じました。あの状況では、何か変なものを嗅いでいたのだと思います。薬品もいろいろ散らばっていました。
特に石巻の工業港付近では、化学製品などの臭いがヘドロのように立ち込め、下から湯気が沸き、泡がブクブク出ている場所にボランティアがいました。逆側の港や渡波方面では水産加工場があったため、魚が流出して腐敗した臭いとの戦いでした。石巻の町中には、その2つの大きな臭いの境界があったと思います。
(次回に続く)
現場で交わされた言葉や、そこで生まれた関係性は、今も静かに息づいています。あの日々の続きを、どこかで誰かが語り合っているかもしれません。あなたの中にも、何か残るものがあれば嬉しいです。

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