12.東北で手仕事のタネを育てたい
東日本大震災後、東北の他の地域でもOCICAみたいなものづくりの事業が芽生えている。そのようなものづくりの種を育てるために、多くの人に知ってもらうメディアづくりを始めた。さらに、震災復興支援の立場から
東日本大震災後、東北の他の地域でもOCICAみたいなものづくりの事業が芽生えている。そのようなものづくりの種を育てるために、多くの人に知ってもらうメディアづくりを始めた。さらに、震災復興支援の立場から
鹿のツノと漁網といった地域資源の活用から始まったOCICAの事業は、金がなくてもスタートできる事業のヒントになればと考えて、活動のプロセスをまとめた本を出版した。カキの加工場が再開した現在でも、OCI
ドリームキャッチャーをモチーフにしたOCICAの作業はミリ単位で切り込みを入れる難しい作業。でも、女性たちは自習練習をしながら腕を磨いてつくっていた。そこへ被災地のために手伝いたいという若者を連れてき
最初は自分たちでデザインを考えて、鹿の角のアクセサリーをつくり始めた。あるとき仙台パルコの催事に出展してみたものの全く売れなかった。それがきっかけでデザイナー探しが始まった。しかし、鹿の角は素材自体に
牡鹿半島では1年間で1,000頭ぐらい鹿を駆除している。その鹿の角を加工すれば、よい手仕事になると考えた。最初に猟師さんとコンタクトをとって、鹿の角を約200本ほど手に入れた。次は加工だ。しかし鹿の角
牡鹿半島には30浜(漁村)がある。面白いのが、浜ごとにカキとか、わかめ、ホタテなど全然違う漁業をやいる。OCICAの取り組みをした牧浜は、カキ養殖の浜だった。季節になると浜の女性たちが集まって、カキを
震災前は、漁師の奥さんたちはお金を触ることはなった。ミサンガが売れてお金が貯まってくると、それで何かしようという話しになった。震災前から、漁業では出荷できない魚が結構あった、それを女性たちが上手に料理
そうやって牡鹿半島で支援活動をしていたら、漁協の事務局から相談を受けた。漁師の男性たちは緊急雇用で仕事があったが、女性たちはやる仕事がなかったので「何か自分たちでできることはないか」という話し合いをし
東日本大震災で沿岸部は大きな被害を受けていて、そのなかで一人の人間として何ができるのかわからなかった。つなプロで牡鹿半島を回っていたとき、災害ボランティアが誰も来ないといういう話を聞いた。そこで東京の
旅で知り合った集落の人たち。彼らの「やりたい」を実現する何でも屋をやっていた。それから、1年半ぐらいたったときに震災が起きた。旅をする中で、東北でもすごいお世話になった人がいっぱいいたから、フリーで自
知らない暮らしを知るために、旅をしていた。しかし基本もらうばかり。それで、後半になって、かわりに何を差し出せるか、この人のために何かできないかなと考え、訪れた集落の人たちの話を聞かせてもらうようにした
大学時代から友廣裕一という人間が、自分の力でどうやって生きていけるだろうかと常に考えてきた。そこで、ピンと来たテーマが「地域」だった。それには、地域で、どんな人が、どんなふうに暮らしているか知る必要が
東日本大震災の仮設住宅支援や復興起業家育成に10年間携わってきました。現在は震災復興に関する講座やワークショップを実施しています。ここでは、復興ボランティア学講座の記録をまとめて公開しています。