災害支援は「恩返し」ではない――被災地の必要から考える「越境する共助」

論考・コラム

「私たちも助けてもらったから、今度は恩返しをしたい。」
大きな災害が起こるたびに、そんな言葉を耳にします。その気持ちを否定するつもりはありません。しかし、災害支援を「恩返し」と呼ぶことに、私は以前から違和感を抱いてきました。
恩返しとは、本来、受けた恩を返すことです。しかし、災害支援は本当にそうなのでしょうか。過去に助けてもらった人だけが支援するのでしょうか。そして、支援とは「現地へ行くこと」なのでしょうか。
東日本大震災以降、多くの災害現場と復興支援に関わってきた経験をもとに、「恩返し」という言葉の先にある災害支援の本質を考えます。

1.災害支援は「恩返し」なのか

大きな災害が起こるたびに、耳にする言葉があります。

「私たちも、あのとき助けてもらった。今度は恩返しをしたい」

先日(2026年7月28日)に発生した熊本地震でも、「私たちも助けてもらった。だから恩返しに行く」という声が、繰り返し報じられていました。

支援を受けた経験を忘れず、別の被災地の力になりたいと考える。その気持ちは理解できます。しかし私は、災害支援を「恩返し」と呼ぶことに、以前から違和感を覚えてきました。

恩返しとは、本来、恩を受けた相手に報いることです。ところが、過去の災害で自分たちを支えてくれた人と、次の災害で支援を必要としている人は、多くの場合、同じ人ではありません。東日本大震災で支援を受けた地域の人が、熊本や能登へ向かったとしても、恩を受けた相手に返しているわけではないのです。

それでも「恩返し」という言葉が使われるのは、自分たちが受けた支援を、今度は別の地域へ届けたいという意味なのでしょう。けれども、それは本当に「返す」という行為なのでしょうか。

過去の恩を精算しているのではありません。いま困っている人を支えようとしているのです。それならば、これはもっと単純に、社会のなかでの助け合いと考えるべきではないでしょうか。

「助けてもらったから助ける」という言い方には、もう一つ気になる点があります。その論理を裏返せば、助けてもらった経験のない人には、支援する理由がないことにもなりかねません。

しかし、災害支援に過去の被災経験は必要ありません。被災した人だけが、次の被災地を支えるのではないはずです。まだ大きな災害を経験していない地域に暮らす人も、同じ社会で起きた困難に関わることができます。

困っている人がいる。その困難を、被災した地域だけに背負わせない。

支援の理由は、それで十分です。

「恩返し」という言葉は、かつて助けられた人が、今度は助ける側に回るという美しい物語をつくります。しかし、その物語によって、支援の理由が過去の貸し借りに置き換えられれば、災害支援の本質を見誤ることになります。

問うべきなのは、誰がどのような恩を受けたかではありません。いま生じている困難に対して、社会がどのように支え合うかです。

災害支援は、本当に「恩返し」なのでしょうか。

この問いから、支援のあり方を考え直していきます。

2.被災経験者だけが支援の担い手なのか

災害支援を「恩返し」と呼ぶと、支援は、かつて助けてもらった人が担うもののように見えてきます。

「私たちは支援を受けた。だから今度は、自分たちが助ける」

この言葉には、支援を受けた経験を次の行動につなげようとする思いがあります。しかし、それを支援の理由として強調すると、被災経験のある人と、そうでない人との間に、見えない線を引くことになります。

助けてもらった人には、支援する理由がある。助けてもらった経験のない人には、その理由がない。そのような受け止め方を生みかねないからです。

私は、まだ大きな災害が起きていない地域を「未災地」と呼んでいます。災害とは無縁の土地ではありません。いまだ災害が起きていないだけであり、いつ被災地になるかはわかりません。

それにもかかわらず、「被災地から被災地への恩返し」という物語ばかりが語られると、未災地に暮らす人は、自分を災害支援の外側に置いてしまいます。自分は被災していない。支援を受けてもいない。だから、返すべき恩もない。そのような距離が生まれます。

しかし、災害支援は、過去に助けてもらった人だけが担うものではありません。

被災経験がなくても、資金を出すことはできます。必要な技術や人材を提供することもできます。被災地に近い地域で、支援の拠点を支えることもできます。被災したことがあるかどうかによって、支援に関わる資格が決まるわけではありません。

被災地と未災地は、切り離された存在ではありません。被害を受けた地域だけでは足りない人や物、資金を、被害を受けていない地域が補う。大規模な災害に対応するには、その関係が欠かせません。

だからこそ、被災経験者の行動だけを、特別な物語として語るべきではないのです。被災した人が別の被災地を支えることには意味があります。しかし、それは支援を受けた人に課された返礼ではありません。

被災した人だけが助けるのではない。被災していない人も含めて、社会全体で支える。

災害支援を考えるとき、まずこの前提を共有する必要があります。

3.支援者の物語より、被災者の必要を

被災経験の有無にかかわらず、誰もが災害支援に関わることができます。では、その行動が本当に支援になっているかどうかは、何を基準に判断すればよいのでしょうか。

「恩返し」という言葉の主語は、支援する側です。

「あのとき助けてもらった」
「その感謝を返したい」
「今度は自分たちが助ける番だ」

そこでは、支援者の経験や思いが前面に出ます。しかし、災害支援の中心に置かれるべきなのは、支援する人の物語ではありません。被災した人が、いま何に困り、何を必要としているかという現実です。

支援者がどれほど強い使命感を抱いていても、その行動が現地の必要に合っていなければ、支援にはなりません。反対に、特別な被災経験や物語を持たない人であっても、必要な資金や技術、人手を適切な形で提供できれば、それは有効な支援になります。

支援の価値を決めるのは、思いの強さではありません。その行動によって、被災者の負担がどれだけ軽くなったかです。

誰かの役に立てた喜びや、自分にもできることがあるという実感を得ることはあるでしょう。それ自体を否定する必要はありません。ただし、それは支援の結果として生じるものであって、目的ではありません。

最初に考えるべきなのは、「自分は何をしてあげたいか」ではなく、「相手はいま何を必要としているか」です。

現地へ行くことが必要なのか。物資を届けることが必要なのか。それとも、資金を提供し、要請が出るまで待つほうがよいのか。答えは、支援者の思いではなく、その時点の被災地の状況によって変わります。

災害支援とは、善意を表明することではありません。善意を、被災者にとって必要な形へ変えることです。

支援者の物語よりも、被災者の必要を優先する。

ここから先は、この原則に照らして、災害直後の行動や物資支援、ボランティアのあり方を考えていきます。

4.その行動は、被災地で本当に必要とされているのか

被災者の必要を基準に考えるなら、災害が起きた直後の行動にも慎重さが求められます。

「何かしたい」という思いと、「その行動がいま必要か」という判断は、分けて考えなければなりません。

発災直後の被災地では、人命救助、安否確認、避難所の開設、道路や通信の確保、被害状況の把握が優先されます。自治体の庁舎や職員自身が被災し、何が不足し、どこに支援が必要なのかさえ、まだ明確になっていないこともあります。

その段階で、役割も受け入れ先も決まっていない人が現地へ入り、「何か手伝えることはありませんか」と尋ねれば、現地はその人のために仕事を探し、説明し、配置しなければなりません。支援するつもりで訪れた人が、対応すべき相手を増やすことになります。

車中泊やテント泊をすれば迷惑をかけない、と考える人もいるでしょう。しかし、被災地に滞在する以上、食料や水、燃料、トイレ、駐車場所が必要です。道路を使い、限られた空間を占めます。本人が自己完結しているつもりでも、現地にまったく負担をかけずに活動することは簡単ではありません。

一方で、発災直後から現地で必要とされる人もいます。

被害や支援の状況を確かめ、何が、どこで、どれだけ必要なのかを見極める人。行政、住民、支援団体の情報をつなぎ、外部から届く人材や物資を調整する人。現地が十分に情報を発信できない状況を補い、必要な支援を外部へ伝える人です。

こうした役割には、災害支援の経験と、混乱した状況のなかで情報を整理し、判断する力が求められます。単に早く現地へ着いただけでは、その役割を果たすことはできません。

一般の災害ボランティアが力を発揮するのは、受け入れ体制が整い、必要な作業が明らかになってからです。活動場所や内容、安全管理の方法が定まって初めて、外部からの人手が支援として機能します。

それまでは、現地へ行かないという判断が必要です。

5.物資を運ぶより、必要な資源が届く仕組みを

現地へ行かなくても、「必要な物だけは届けたい」と考える人はいます。しかし、物資は送れば役に立つとは限りません。

必要とされる物は、地域によって異なり、時間とともに変わります。遠方で不足の情報を知り、物資を集め、車に積んで運んでいる間に、現地の需要が変わることもあります。到着した時には、すでに足りているかもしれません。

届け先が決まっていなければ、物資は現地で仕分けされ、保管場所を確保され、配布方法を考えられることになります。助けるために届けた物が、新たな作業と負担を生み出すのです。

物資支援で重要なのは、遠方から一人ひとりが直接被災地を目指すことではありません。被害を受けていない近隣の都市に拠点を置き、現地の情報を集めながら、必要な物を調達して送り出すことです。

被災地に近い拠点であれば、需要の変化を早く把握できます。輸送距離も短くなり、物資の種類や量を調整しやすくなります。被災地へ入る車両や人員を絞ることで、道路や受け入れ側への負担も減らせます。

遠方から支援する人は、その拠点を資金面で支えればよいのです。物資の購入費に加え、燃料代や高速道路料金を使って少量の物を運ぶより、その費用を託したほうが、現地の状況に応じた調達ができます。

お金は、その時に必要な食料、水、燃料、医薬品などに変えられます。自分の手で物を届けるほど目立つ行動ではありませんが、状況の変化には柔軟に対応できます。

支援とは、自分が何かを運ぶことではありません。

必要な資源が、必要な時期に、必要な人へ届く仕組みをつくることです。

6.災害ボランティアは誰のために行くのか

物資を自分の手で届けることが、必ずしも最善の支援になるとは限りません。それでも、人はなぜ被災地へ向かおうとするのでしょうか。

東日本大震災の後、私は多くのボランティアと接してきました。そこで感じたのは、被災地へ向かう理由は、単純な善意だけでは説明できないということです。

誰かの役に立ちたい。自分にもできることがあると確かめたい。普段の生活では得られなかった居場所を見つけたい。これまでの仕事や生き方を見つめ直したい。私が接した人のなかには、そうした思いを抱えている人もいました。

日常では、自分が必要とされている実感を持てなくても、被災地には目の前に多くの仕事があります。そこで初めて、「自分にも役割がある」と感じることがあります。ボランティア活動が、その人自身を立て直す機会になることもあるでしょう。

それ自体を否定する必要はありません。人の行動には、他者のためという思いと、自分のためという思いが、同時に含まれているからです。

問題は、その自分自身のためという側面を自覚しないまま、「恩返し」や「被災地のため」という言葉だけで行動を美化してしまうことです。

必要とされたいという思いが強くなれば、現地に十分な仕事がなくなっても残ろうとするかもしれません。自分が役に立ったという実感を得るために、求められていない支援を続けてしまうこともあります。

ボランティアを通じて、自分が救われることはあってもよい。しかし、被災地を自分探しの場所にしてはなりません。

自分はなぜ現地へ行こうとしているのか。そこで何をしたいのかではなく、何を提供できるのか。その行動は、本当に現地の必要に応えているのか。

被災地へ向かうこと自体に、価値があるわけではありません。問われるのは、現地にとって意味のある役割を果たせるかどうかです。

7.災害支援の経験知を、次の被災地へどう生かすか

被災地へ向かうこと自体に価値があるわけではありません。では、過去に災害を経験した地域から、別の被災地へ人が向かうことには、どのような意味があるのでしょうか。

その価値は、過去の災害で得た経験知を、次の復旧に役立てることにあります。

災害の後には、時間の経過とともに課題が変わります。避難所の運営、ボランティアの受け入れ、家屋の片づけ、仮設住宅への移転、孤立の防止、生活再建など、それぞれの段階で異なる問題が生じます。

実際にその過程に関わった人は、どのような問題が起こりやすいのか、何を先に進めるべきか、どの支援が役に立ち、何がかえって負担になるのかを知っています。成功した方法だけではなく、うまくいかなかったことや、後になって気づいたことも、次の被災地にとって重要な情報です。

こうした経験が共有されれば、新たな被災地が同じ失敗を繰り返したり、不要な遠回りをしたりすることを減らせます。過去のやり方をそのまま持ち込むのではなく、現地の状況に合わせて生かすことで、復旧や生活再建を支える力になります。

被災地から別の被災地へ人が向かう意味は、「私たちも助けてもらったから返しに来た」ということではありません。

過去の災害から得た知識や教訓を、次の災害に役立てることです。

それは恩返しではなく、経験知の共有です。

8.災害報道がつくる「恩返し」の美談

被災地から別の被災地へ人が向かう意味は、過去の災害で得た経験知を、次の復旧に役立てることにあります。

ところが宮城県のテレビでは、別の地域で災害が起こるたびに、車に物資を積み、「これから恩返しに行きます」と語る人が取り上げられます。かつて助けられた人が、今度は助ける側に回る。わかりやすく、感動的な物語です。

しかし、その行動が本当に現地の役に立つのかは、ほとんど問われません。物資は求められているのか。届け先は決まっているのか。道路や物流が混乱するなか、遠方から車で向かう必要があるのか。そうした検証をしないまま、「恩返し」という言葉によって行動が称賛されます。

私が強い違和感を覚えるのは、メディアが災害現場の現実を知らないはずがないからです。

メディアは東日本大震災をはじめ、多くの被災地に入り、現地の混乱を取材してきました。受け入れ先のない人や物資が、善意とは裏腹に負担となることも見てきたはずです。災害時には、善意だけで動けば支援になるわけではないことを、報道する側も知っているはずなのです。

それにもかかわらず、次の災害が起こると、その教訓は報道から抜け落ちます。そして再び、「恩返しに向かう人」という美談がつくられます。

これは、単に説明が足りないという問題ではありません。災害現場で得た知識を次の報道に生かさず、現実よりも感動を優先することで、災害支援の伝え方そのものを誤らせているのです。

メディアが問うべきなのは、その人の思いの強さではありません。その行動が現地から求められ、被災者の必要に応えているかどうかです。そして、過去の被災地で何が支援となり、何が負担となったのかを、次の災害でも伝え続ける必要があります。

災害報道は、その場限りの美談をつくるためにあるのではありません。被災地で起きたことを記録し、得られた教訓を次の災害に生かすためにあるはずです。

その役割を忘れたまま、「恩返し」という美しい物語を繰り返すことは、もうやめるべきです。

9.「恩返し」ではなく「越境する共助」へ

災害支援は、恩返しではありません。

過去に助けてもらったから、今度は別の被災地を助ける。その気持ちは理解できます。しかし、支援の理由を過去の恩に求める必要はありません。

被災した地域だけでは抱えきれない困難がある。そのとき、被害を受けていない地域が、人、物、資金、技術、経験知を持ち寄る。それが災害時の助け合いです。

私は、この地域を越えた助け合いを「越境する共助」と呼びたいと思います。

共助は、身近な地域のなかだけで行われるものではありません。市町村や都道府県の境界を越え、被災地と未災地の境界を越えて、必要な支えを届けることができます。

ただし、支援する側がしたいことを持ち寄ればよいわけではありません。何を、いつ、どのように届けるかは、被災地の必要によって決まります。

自分が何をしてあげたいかではなく、いま何が必要なのか。

この問いを基準にすれば、すぐ現地へ行くことが支援になる場合もあれば、行かずに待つことが必要な場合もあります。物を運ぶより、資金や経験知を届けるほうが役立つこともあります。

被災経験のある人だけが支援するのでもありません。未災地に暮らす人も、災害支援の担い手です。支援を受けたことがあるかどうかにかかわらず、同じ社会で生じた困難を、その地域だけに背負わせないために関わることができます。

「恩返し」という言葉を使わなくても、人を助ける理由はあります。

災害支援とは、過去の恩を返す行為ではありません。地域や被災経験の境界を越え、いま必要な支えを持ち寄ることです。

それが、越境する共助なのです。

災害支援を「考える場」へ

この記事で述べたことは、一つの正解を示すものではありません。

災害支援の現場では、状況も立場も異なり、その都度判断が求められます。だからこそ大切なのは、「善意があるか」ではなく、「その行動は本当に被災地の必要に応えているのか」と問い続けることです。

復興ボランティア学では、東日本大震災をはじめとする災害現場の記録をもとに、支援のあり方を対話しながら考えるワークショップを開催しています。

「支援とは何か」「共助とは何か」「私たちは次の災害に何を引き継ぐべきなのか」。

現場の経験を、次の災害に生かすために、ぜひ対話の場へご参加ください。

復興ボランティア学ワークショップのご案内

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