与える災害支援から、ともに生きる復興支援へ──JENの思想

復興支援活動の記録

Volunteerカテゴリ(2013年/西村真由美)

「災害支援」を超えて「共に生きる」をデザインする

「受け止める器」が生んだ共感的支援

被災者と共に考え、共に動く。国際協力NGO・JENの活動は、東日本大震災の現場で「共感的支援」と呼ばれる新しい支援のかたちを提示しました。物を与えるだけではなく、被災者が自らの手で生活を立て直せるよう、共に働き、共に学び、共に笑う――。その根底にあったのは、「助ける手」ではなく「受け止める器」をつくるという発想です。

JENが掲げる「自立の3要素」は、復興支援のすべての現場で生きていました。課題を自ら設定できること。課題を自力で解決できること。そして、課題解決に周囲を巻き込めること。特に三つ目の「巻き込む力」は、被災地に生きる人々を単なる「支援の受け手」から「地域の担い手」へと変えていきました。

共に立ち上がるチームが生まれた現場

JENは震災発生の翌日に支援を決定し、3月20日には石巻へスタッフを派遣しました。当初は短期滞在の予定だった西村真由美さんも、やがて現地に腰を据え、2年以上にわたって活動を続けます。最初の拠点は、災害支援拠点になっていた大学のテニスコート裏の土手下に建てられた小さなプレハブ。スタッフ全員で雑魚寝をしながら、地域の人々と同じ目線で暮らしていました。現地採用のスタッフも早い段階で加わり、「外からの支援」ではなく「共に立ち上がるチーム」が形づくられていきました。

ユニクロと協働した衣料品の配布では、住民が自らの意思で色やサイズを「選ぶ」ことができるようにしました。震災直後の極限状態において、「自分で選ぶ」という行為は、被災者の尊厳を取り戻す小さな一歩でした。炊き出しの場では、地元のお母さんたちが昼食をつくり、泥出しを終えたお父さんたちが食卓を囲む。その光景を見た西村さんは、「人間本来の役割を果たしているようで、まぶしく見えた」と語っています。瓦礫の中に浮かび上がったのは、人が互いを思い、支え合う原点でした。

JENの活動は、物資や労働の提供を超えて、被災者の中にある「生きる力」を引き出すことに重きを置いていました。被災者を「助ける対象」ではなく、「共に社会を再建する仲間」として受け止める。その思想が、石巻の復興を支える静かな柱となっていきます。

「共に働く」から生まれた復興のエコシステム

「寄付」ではなく「投資」としての支援

JENの支援は、他のボランティアと変わらない泥出しや炊き出しから始まりました。やがて緊急期を過ぎた段階で、「雇用を守る支援」へと展開していきます。

津波で車を失った産廃収集企業に対して、JENはトラックを無償で貸与しました。それは、がれきを運ぶ車がなければ仕事が続けられず、従業員を解雇せざるを得ないという現実を目の当たりにしたからです。この支援によって、企業は町の清掃を進めながら雇用を守ることができました。

貸与されたトラックは後に原価で買い取られ、地域の中で使い続けられる資産となりました。単なる「寄付」ではなく、地域が自立して回復していくための仕組みを残す「投資」。JENのこの取り組みは、物資を渡す支援から「生業(なりわい)を支える支援」へと発想を転換した、象徴的なプロジェクトでした。

漁網を編む手がつないだ「支え合いの文化」

さらに象徴的だったのが、牡鹿半島での漁網再生プロジェクトです。津波で漁網が流され、全国的に在庫が不足する中、JENは「部品ならある」という漁師の声を拾い上げました。JENが部品を買い取り、漁師たちが自ら網を編み、完成品をJENが買い取って再び漁協を通じて配布する。網づくりがそのまま収入となり、漁の再開へと繋がる仕組みでした。

この取り組みには、経済的な支援だけでなく、心のケアの側面もありました。男性たちが集まり、手を動かしながら語り合う。その場が、震災で失われかけた「つながり」を取り戻す時間になっていったのです。高齢の漁師しか知らなかった網編みの技術も、若い世代へと引き継がれました。もし災害がなければ途絶えていたかもしれない伝統が、被災を通じて受け継がれたのです。

この漁網支援モデルは、JENがインド洋大津波後のスリランカで実施した支援とまったく同じ構造でした。スリランカでも、漁師たちは網を編みながら語り、笑い、互いを励まし合っていました。西村さんは「まさか日本で同じことをするとは思わなかった」と語りながら、「根本的な人の在り方はどこでも同じ」と実感したといいます。支援の本質は文化や国境を超え、「人が人を支える」ことにある。その実感が、現場を動かす力になっていきました。

仮設住宅から生まれた「自立の場」


石巻での活動が進むにつれ、JENの支援はコミュニティの再生へと焦点を移しました。仮設住宅で自治会の立ち上げを支援し、駐車場やゴミの問題など、住民が抱える日常の課題を「自分たちで解決する」方向へ導きました。会計を引き受ける人、会長を務める人、自然に役割が生まれ、絆が編み直されていきました。外から「正しいやり方」を押し付けるのではなく、住民自身が「自分たちの力でできる」と気づくための「場」を整える。これこそがJENが築いた「受け止める器」でした。

支援はしばしば「仕組み」として語られますが、JENがつくったのは「関係の場」でした。人と人がつながり、語り合い、役割を分け合う。そこにこそ、支援が循環し続ける構造があったのです。

災害支援の構造を「人間の行為」として設計する

「話し合い」から始まる自立のデザイン

JENの支援は、モノを届けるシステムではなく、「人の行動」と「関係」を設計するプロセスでした。その構造にはいくつかの層があります。第一に、「課題を共有する場」を持続的に設けたことです。西村真由美さんは、地域の課題を行政任せにせず、「みんなで話して決める」仕組みを重視しました。仮設住宅では、話し合いの場を設けるたびに自然と役割が生まれ、会議そのものが「自立の訓練」となっていました。

「交流の構造化」が支援を長く続ける

第二に注目すべきは、「交流の構造化」です。中越大震災で支援した新潟県・池谷集落では、ボランティアが村人を「お客さま」として迎え、食事を用意する形式の交流会を行いました。受け入れる住民の負担を減らし、無理のない関係づくりを続ける仕組みです。この考え方は石巻でも生かされ、支援する側・される側を入れ替えながら続く交流が、支援を長く保つ力になりました。

「つなぎ手」が生み出す循環の仕組み

第三に重要なのが、「つなぎ手」の存在です。何度も現地を訪れた学生ボランティアやリピーターたちは、やがて地域に根ざした「運営ボランティア」となり、外部と内部を結ぶ橋渡し役を担いました。JENはこの層を意識的に育て、「支援する人」と「される人」を循環させる仕組みを作り上げました。

「楽しさ」が支援を持続させるエネルギーになる

そして第四に、「楽しさ」という要素の導入です。たとえば、東京外国語大学の学生たちは2年以上にわたり毎週末石巻を訪れました。その理由は「使命感」ではなく、「子どもたちの笑顔が見たい」「遊ぶのが楽しい」からでした。中越地震で支援した池谷集落でも、若者たちは「おいしい水や米、人の温かさ」に惹かれ、移住するまでに関係を深めていきました。彼らは「楽しくて仕方がなかった」と語り、JENは支援の継続を支える原動力が「善意」ではなく「喜び」にあることを現場から学びました。

この「喜びの循環」は、支援を「特別な行動」ではなく「日常の延長」として根づかせる力です。支援を「正しいこと」から「楽しいこと」に変える。その設計思想こそが、JENの活動のもっとも革新的な部分でした。

「共助」を育てる学びが生まれた復興の現場

支援の延長にある「学びの場」

石巻の記録は、災害支援にとどまらず、教育・防災・地域づくりに共通する知恵を含んでいます。まず、「学びの場」は支援の延長線上にあります。学生ボランティアや地域の子どもたちは、活動を通して「できることを見つけ、仲間と形にする」経験を重ねました。これは学校教育で言えば「課題設定能力」の育成そのものです。被災地で生まれた自立の構造は、教育現場にもそのまま応用できます。

「対話の設計」が生み出す共助の力

次に重要なのは、「対話の設計」です。人が安心して語り合える場を整えることで、震災で断たれたつながりが回復し、共助の関係が再び息を吹き返します。JENが仮設住宅で行ったワークショップでは、目的を見失いかけたグループに「私たちは何のために集まっていたのか?」と問い直しました。その対話の中で、「出会い」「仲間」「楽しい」という言葉が再び共有され、活動が自然に再始動したのです。防災教育でも同じことが言えます。避難訓練や手順を教えるだけでなく、「なぜそれをするのか」を語り合う時間を持つことが、行動を続ける力になります。

「外のまなざし」が誇りを照らす

さらに、JENの経験が示すのは、「外部の視点」が地域の誇りを照らすということです。池谷集落では、都会から来たボランティアが「水がおいしい」「人が温かい」と言葉にすることで、村人が自分たちの価値を再発見しました。石巻でも、外部の大学や専門家が関わることで、住民が「自分たちの町はすごい」と感じる瞬間が生まれました。外からのまなざしは、内側の自信を育てる鏡になるのです。

誠実な行動が信頼を呼び込む

そして最後に、西村真由美さんが語った「必要なことをやればお金はついてくる」という確信。正しいことを地道に続け、きちんと報告する。その姿勢こそ、支援を持続させる基盤です。資金を追うのではなく、信頼を積み重ねる。現場の小さな誠実さが、結果的に大きな支援を呼び込む。この信念は、地域づくりの根底にも通じるものでした。

「特別な災害支援」を「日常の共助」へ変える

暮らしの中に支援を根づかせる

2013年、JENの活動スローガンは「暮らしやすい町・ずっと暮らしたい町」でした。その言葉どおり、目指したのは災害対応の終着点ではなく、「支援が日常に根づく社会」でした。牡鹿半島の佐須浜では、漁師とお母さんたちが協力してカキ小屋や食堂を立ち上げました。「戻ってきてほしい」ではなく、「自分たちがまず楽しく暮らそう」という発想から生まれた自発的な取り組みです。その前向きな姿勢は、外部の支援がなくなったあとも地域の暮らしの中に息づいています。この取り組みは、JENが定義する「自立の三要素」──課題設定・解決・巻き込み──を体現するものであり、震災前から続く過疎化への具体的な対抗策にもなりました。

「人と人の関係」が支援の本拠地になる

もう一つの象徴的な実践が、東京外国語大学の学生たちが運営していたコミュニティカフェ「なかやしきっさ」です。JENと連携し、子どもや地域の人々が集う場をつくってきましたが、建物は取り壊されることが決まっていました。それでも学生たちは活動をやめませんでした。「場所がなくても続けよう」と、近隣の学校や公民館に拠点を移し、月に一度の交流会を継続しています。「石巻で出会った人たちの笑顔がもう一度見たい」――その思いが、彼らを東京から何度も通わせています。支援の本当の拠点は建物ではなく、人と人との関係そのもの。そして「楽しいから続けられる」という実感こそが、共助を文化として根づかせる原動力でした。

共助を日常に還すために

災害から生まれた共助の文化を、私たちはどう日常へ還していけるでしょうか。課題を見つけ、仲間を巻き込み、楽しみながら行動する。その小さな積み重ねが、次の災害を乗り越える社会をつくります。あの日、瓦礫の中で人々が炊き出しを囲み、笑い合っていたように――支援の本質は、特別な行動ではなく、日常の優しさの中にあります。

東日本大震災の仮設住宅支援、復興起業家育成に関わってきました。大学では、震災復興を考える講座やワークショップを実施しています。ここでは、復興ボランティア学講座の記録をまてめて、公開しています。

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