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2013年5月21日 ワカツク 渡辺一馬 Part7
仙台で若者の社会参加と人材育成を手がけるワカツクの渡辺さん。新たに初めて人材育成事業が回り始めたところで、東日本大震災が起こります。自宅は全壊したため、県南の実家へ避難します。翌週には県庁の会議に紛れ込み、被害状況を把握できていない実態を目の当たりにしました。そこでNPOを集めて、民間支援のワンストップセンターの立ち上げに取り組みます。
自宅は倒壊し、県南の実家へ避難
2年2カ月前とはとうてい思えません。もう5~6年前のような感じがします。その間の長い期間、いろいろなことがその間にありました。僕はあのとき、街中にいました。比較的高いビルが竹のようにしなるのを見て、「おお、世界が終わる」と思いました。そのうち揺れが止まり、人が慌ててビルから飛び出てきて、また予震があってうんぬんということを繰り返して。津波が大変だとか、そのときは全然思いませんでした。
私の自宅です。仙台市の丘陵地帯に自宅がありまして、盛り土だったので、土が崩れて家が全壊しました。住む場所を失って、しょうがないから実家の角田に家族ごととりあえず避難することにしました。4号線を通って僕たちは南に行きましたが、あの4号線から一番近い所で、たった数百メートル先に津波が来ているなんてことは僕は知らなくて、南へ南へ向かって逃げました。
少し落ち着いて。あれは金曜日にあって、土日は実家にいて、月曜日は出社しようと思って。石巻の皆さんは想像付かないかもしれませんが、月曜日の朝、仙台駅では、みんなスーツを着て出社するのです。日本人はすごいなと思いました。こんな危ない状況なのに、出社をしようとする人々がいて。絶対あの人たちはお風呂に入れてないはずなのに、みんなきれいな格好をして何とか来ようとする。僕もその波にのまれながら仙台に無理やり付いて、会社の片付けをしたり何だかんだとしているうちに、裏方の仕事が始まりました。ここから本題です。
勝手に紛れ込んだ県庁の会議室では、状況を把握し切れていなかった
僕は別に震災ボランティアの裏方の仕事をするつもりなんてさらさらなかったのですが。市民活動団体の裏方の仕事を少し手伝っていたことがあって、取りあえず自分が住む場所と会社は片付いたから、何かしようかなと思うぐらいで、取りあえず僕のお師匠さんとかが県庁に呼ばれているところに一緒について行きました。県庁の大きい会議室で、当時緊急対策会議みたいなものがあって、そこに勝手に混ざり始めます。
大きい会議室に雑然と、県庁の職員、国から派遣されているお役人の方々、自衛隊のバックオフィスの方々、そして僕たちみたいな市民活動団体と言われる方々が、当時は週に2回ぐらい集まって、今どういう状況か、お互いに何ができるのかということの会議を続けてきました。でも、状況が分からないのです。テレビで言っていることぐらいしか分からなくて、友達とか、NPO系の活動をしていた人とか、関係なく物を運んでいる人、石巻に友達がいたのでそいつと連絡を取ってみるとかしているうちに、全然追いついていないんだということにだんだん気付いてきました。
民間の支援が行き届く仕組みをつくる
集まってくれる方は一部でしたけども、当時活動していた市民活動団体の方に、今どういう状況か取りあえず情報交換しましょうと無理やり集まっていただきました。支援がかぶることは問題ないけれど、支援が届いていない場所はどこなのかちゃんと知ろうぜ、みたいな話とかを無理やりしていました。
それを円滑に進めるために、今では大変ご批判も受けますが、「みやぎ連携復興センターを立ち上げましょう」と、「民間ができるような物とか支援とかのエクスチェンジ機能を、ちゃんとやれるワンストップセンターっぽいのをつくったほうがいいんじゃないのか」と言いました。
そんなものをせんだい・みやぎNPOセンターという小さい団体では全部できないので、幾つかの団体と連合体でやりましょうとなりました。仙台JCさんとか、当時貧困者支援のことをしながら、炊き出しとかをわーっとやっていた、パーソナル・サポートセンターさんと、外務省系のNGOでジャパン・プラットフォームさんという資金供給団体さんと、せんだい・みやぎNPOセンターとで、「みやぎ連携復興センター」というのをつくってコーディネートを始めました。
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