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2013年5月7日 On the Road 魚谷浩 Part3
東日本大震災で、On the Roadの、宮城代表だった魚谷さん。震災で被災したふるさとを再生したいという人と出会いました。この出会いをきっかけに魚谷さんは団体を辞め、牡鹿半島で最も小さな漁村の再生「蛤里プロジェクト」に加わります。
※動画はありません。書き起こし文章のみです。
街の夜を明るくしたいから、おでん屋をやっていました
そんなオンザロードを、僕は作年の9月に卒業させていただきまして、そこから現在は、蛤里プロジェクトといいまして、牡鹿半島にある「はまぐりはま」。漢字では「蛤浜」の2文字なんですけど、いま「蛤里プロジェクト」という団体で活動しています。
実はその間に、石巻中央で、おでんの屋台をやっておりました。いま僕が住まわせていただいているのは、この石巻の中央あたりなんです。日に日に建物がなくなる中で、その空き地の今後の利用方法が決まってないので、空き地にしている期間が本当に非常にもったいない。
夜も暗いですし、だったら何か、屋台のようなものができたらいいなということで、石巻の老舗のお店のキッチンカーをお借りして、移動販売というかたちで屋台をやっていました。
わずか4カ月だったんですけど、そこにはいろんな情報が集まって、いろんな人が来ていただいて、本当に今はやってよかったなという結果しか残っていません。また来春も何か機会があれば、そういったことをやりたいなと思うんです。
牡鹿半島で最も小さな集落を再生します
そのおでんのことはさておいて、いま進めているこの「蛤里プロジェクト」っていうのは何か、ちょっと説明させていただきます。牡鹿半島の蛤浜は、牡鹿半島の中でも一番小さいと言われている浜なんです。
震災前、14戸の建物と9世帯の暮らしがあった浜でしたが、現在の建物は4戸で、暮らししているのは2世帯のみ。今後そこで生活していく人たちが、はたしているのかどうか、それを僕たちの力によって、増やしていきたいなと思っています。
この蛤里プロジェクト に僕が関わるきっかけになったのは、オンザロードにいた時に、当時水産高校で教諭をしていた亀山先生という人物に出会ったことがきっかけです。その先生のふるさとが蛤浜です。震災前まで奥さまと2人で、蛤浜のご実家に住んでいらっしゃったんです。
ご自宅は高台にあったため、津波の被害は受けなかったのですが、震災当日に、亀山先生は水産高校にて授業をしていました。奥さまはお腹の中にお子さんがいたんですけど、ちょうど渡波のご実家に帰られていたそうです。その渡波で、奥さまは津波の犠牲者となって、今回、亀山先生はすごく心に傷を負ったというお話を聞きました。
浜ににぎわいを取り戻したい
震災から1年から経ったころに、僕はちょうど亀山先生と出会いました。亀山先生が1年後、蛤浜に戻ったときに、住んでいた区長さんに相談を受けたそうです。できれば若い人が戻ってきて欲しい、何かここでおもしろいことをやって欲しい。みたいなことを区長さんに言われたそうです。
亀山先生も、奥さまと一緒に暮らしていた時は、将来、蛤浜でカフェができたらいいな、みたいな話をしていたそうです。だったらその奥さまに対して、冥土の土産になるように、浜で楽しいことをやって、これから浜の継続をしていこうじゃないかということが、このプロジェクトの発端になったわけなんです。
その先生の話を聞いて、僕はすごく心を打たれて、どうにかして関われないかということで、前団体のときにも、いろいろ関われる内容を考えたんですが、どうも、この浜が危険地域に指定されていたんです。なので、今後の新しい建物が建てられないということで、団体としては関わりにくかったんです。
だったら僕は、個人になれば、大いに関われるかなと思ったんです。それが全てではないんですけども、団体を抜けました。それで、おでん屋さんをやっているときに、亀山先生から、僕が一人でおでん屋をやっているということなので、おでんが終わり次第、一緒に関わってもらえないか、というオファーをいただきました。僕はもう、本当に快く、一つ返事で、一緒に蛤浜の新しいかたちをつくることを誓いました。
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