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2013年7月13日 め組JAPAN 河野心太郎 Part6
東日本大震災の10日後に会社を辞め、ボランティア未経験ながら災害支援活動に参加した河野さん。河野さんが所属していため組JAPANは、石巻で最初に関わった湊小学校で、震災で流れた卒業式を実現するため、学校や住民さんと協力して被災した教室を整備しました。そして、3月29日、ボランティアや地域の人たちに見守られながら、被災地でつくった日本一の卒業式が挙行されたのです。
石巻での支援は湊小学校から始まりました
3月16日にめ組JAPANが一番初めに入ったところは、湊小学校でした。湊小学校についた時に、夜遅かったので、もう街中真っ暗だったんですけど、「誰かいますかー」っていうに声をかけると、学校の中から、ポツポツっと明かりが、懐中電灯の明かりがついたらしいんです。
代表の方が出てきてくれて、自分たちトラックで来てて、そのトラックにいっぱい支援物資を積んで持ってきたんですけど「ここにはどれくらいの方が避難されているんですか」って聞いたら、その当時、湊小学校に、3千人の方が避難されてたそうなんです。急ぎ、これ持ってきたので、どうぞ使ってくださいということで、物資を降ろしたらしいんです。
当時の湊小学校というのは、湊小学校の裏山のほうに、お寺があったりするんです。そのお寺とかにも、けっこう車が突き刺さっている状態だったそうです。1階と2階の踊り場あたりに、線が入ってたので、それくらいまで、津波が来ていたそうです。
そんな湊小学校だったんですけど、3月13日だったのかな。震災がきていなかったら、卒業式を迎えていたらしいんです。体育館で卒業式の準備もしてたらしいんですけど、震災があったせいで、卒業式ができなかったそうです。
それは湊小学校だけじゃなくて、他もそうだったと思うんですけど、その避難所の中にいる親御さんや、先生とかが、何とか卒業式してあげたいね、という話になったらしいんです。それで、ボランティアの人たちも、みんなで、その卒業式をやりましょうとなったんです。
学校、住民、ボランティアが一体になって卒業式を実現しました
どうせやるんだったら、日本一の卒業式をやってあげましょうよっていうことで、みんなで、卒業式の会場作りとを始めました。ここは、他の学校もそうだと思うんですけど、津波がきてない教室は避難所になっていたので、そういったところを、卒業式会場にはできなかったんです。
だから、1階部分をきれいにして、そこに会場を用意しました。ここは当時、図工室だったところなんです。教室の奥、真ん中あたりに、横から車が突っ込んでいました。でもそこは、重機が入れないところなので、自衛隊さんとかも一緒に、みんなで、人力で、その車を出したそうです。みんなで片付けて、きれいにしながら、飾り付けとかしながら、会場作りをされたそうです。
卒業式には卒業証書が必要ですけど、その卒業証書も、一人一人の名前を入れて、判子を押して、あとは卒業式を待つのみだったんです。でも、震災があって、津波がきてしまったせいで、渡すことができなかったんです。校長室の金庫の中にしまってあったらしいんですが、校長室が1階部分にあったので、全部津波が入って、14日間も金庫が水につかったままだったんです。自衛隊さんにお願いして、その金庫を取り出してもらって、開けてみると、中の卒業証書が、まったく濡れてなくて、きれいな状態で残っていたそうです。それで卒業証書を無事に、卒業式で渡すことができたそうです。
その当時(3月29日)の映像を、ボランティアさんが撮っていました。担任の先生が、子ども達に向けて送った言葉の映像があります。
(卒業式の動画)
当時、こういった卒業式をつくることができました。
僕はこの教室にはいなかったんですけど、専修大学で事務局をしていたので「今日、湊小学校で卒業式が行われました」ってラジオでこの放送が流れてきたんです。その模様を聞いてくださいということで、実際この担任の先生の言葉を専修大学で聞いたんです。ほんとにできてよかったなって。みんなで卒業式をつくろうということで、それぞれが活動して、飾り付けとかつくったりして。みんなでつくった卒業式だったので、ここに関われたことが、すごくうれしかったです。
避難所にはたくさんの方が来ていたので、教室の中に入れない人たちが、ほとんどでした。でも、その人たちも卒業生を送ってあげたいということで、校庭に2列になって、花道をつくって、みんなで送り出してあげたそうです。ほんとに子どもたちにとっては、大変な体験だったり、経験をしたと思うんですけど、何て言うんですか、絶対に強く、この経験がこれから活かされるんじゃないかと思います。この卒業式ができたことが、意味のある卒業式だったって思いました。
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