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2013年7月13日 め組JAPAN 河野心太郎Part4
東日本大震災の被害を見て、災害ボランティアの経験もないのに、会社を辞めて被災地へ飛び込んだ河野さん。ボランティア初めて、資格もない、特技もない、それで大丈夫ですかと連絡をしたら、「やれることがあるから大丈夫」と返事を貰いました。3月22日夜に石巻入りした河野さんでしたが、間もなくして倉庫で支援物資の管理をする物資班のチームリーダーになりました。
ボランティア初めてなんですけど、大丈夫ですか
MAKE THE HEAVENに連絡した時に、メルマガの中で、例えば運転できる人とか、トラックを運転できる人とか、車持ってますよとか、物資積んでこっち来れますよとか、マッサージが得意ですとか、そういったことができる人がすごく喜ばれますって書いてあったんです。
でも、その当時、僕何もできなかったんです。いろいろ事情があって、運転免許さえも持ってなかったんです。しかも、ボランティアの経験もないし、知識もないし、どうしようと思ったんです。
けど「それでも大丈夫ですか。ボランティア初めてなんですけど、大丈夫ですか」って言ったら、軽く、大丈夫ですっていうふうに言われたんです。やれることありますからって。じゃあ、わかりましたって。むしろなんでもやろうって、言われたこと、なんでもやろうと思って、参加しました。
当時はここ石巻専修大学で、うちだけじゃないんですけど、ほんとにたくさんのボランティアさんを、受け入れていました。当時の様子なんですけど、みんなテントで生活していました。だいたい2ヶ月弱くらい、みんな生活していたんですけど、め組JAPANの本部は、運動会テントを3つ並べて、つなげて、それが事務所にしていました。
物資庫チームのリーダーになりました
僕が初めてやったボランティアは、物資庫管理をする仕事っていうのを任せられました。全国から毎日、毎日支援物資が届くんです。トラックとかで、けっこうたくさん詰め詰めの状態で来るんですけど、それをめ組JAPANで一室、お部屋を借りてたんで、そこを物資庫にしていたんです。
そこに行ってみると、毎日物資は届くんだけど、届いたら届いたまんま、全部詰め込められていたんです。別働隊で、人数調査をしたり、避難所回りとかしているチームがいたんですけど、そのチームが帰ってきて、こんな物が必要だ、あれとこれとこれが必要なんだけどって言われた時に、どこにそれがあるのかもわからないんです。どれくらいの数があるのかもわからないような状態だったんです。
これはまずいなっていうことで、まずは、どこに何が、どれくらいあるっていうのを、仕分けをしていくこと。一個一個ダンボールを開けて、その中の仕分け作業というのをやっていました。だいたい5人くらいで、物資庫チームというのを立ち上げて、その時僕はリーダーさせてもらいました。
ほんとに全国から毎日、毎日届くんです。その一つ一つにメッセージが書いてあるんです。例えば、神戸からなんですけど「神戸から愛をたくさん詰め込んで送ります。食物アレルギーを持つママさん大変だとは思いますが頑張ってください 負けないで」。
やっぱりこういうのを見て、避難所におられる方とか、地元の方とかから、すごい元気をもらいますって、当時言っていただきました。ほんとちょっとしたことなんですけど、ただ物を送るだけじゃなくて、メッセージを込めて送るっていうのは、すごく元気を与えることだと思いました。
僕は、3月22日の夜に、石巻に入りました。その次の日、23日に物資を届けるチームに合流して、同行させてもらったんですけど、その時自分の携帯で、町の様子っていうのを撮っていました。これは渡波とか、そのあたりなんですけど、車が2台通れるくらい道は空けられていたんです。
ちょっと脇を見ると、当時はほとんど人が入れないような状態でした。自衛隊さんが来て、まず一番初めにすることっていうのは、道を作ることなんです。ここの渡波小学校ですね。当時ここにもたくさんの方が避難されてました。はい。3月23日で、こういう状況でした。
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